文藝春秋の新刊 1998・10 「窓」 ©大高郁子

とてもきれいにまとまって描かれている。大高郁子の可能性のもうひとつの典型だ。この画の中に物語はないのだが、物語をつくりあげようと企てるけっこう狡猾な画家が美しくいて、わたしはわりと簡単に騙され続け、なにか物語りめいたものを勝手に増幅させ驚いたりうっとりしたり。現在、そういうかわいい狡さを画家は大いに意識的に封鎖している。写生に似た彼女のそんな画業をわたしはつまらないよドラマがないよと困惑し続けてるが、それはだれにとってもやっぱり自分の中の45%を捨てるっていう決意はそうとう重い。
画家が似非の物語から自由になれたなら事物そのものから溢れているはずのアトモスフィアを筆先で自在に定着できるのでしょうか。そして自由に溢れるイマジネーションをわたしは見ることができるのでしょうか。