新潮文庫08年4月新刊 四方田犬彦 ハイスクール1968

ハイスクール1968 (新潮文庫)

ハイスクール1968 (新潮文庫)

著者より3年遅れて高校に入学したわたしにとってちょっと寂寥感溢れる読後感だった。もちろんこれは四方田犬彦個人の自分史・クロニクルなのだし、50年後にニューアカ前史として寒村自伝ほどの資料的意味がでるかもしれない。

前略…
くどいようだが、ここまで書いてきて実感するのは、当時の高校紛争について語った文献や資料があまりにも少ないという事実である。おそらくそれは、大学紛争について書かれたものの何百分の一にも満たないのではないだろうか。身近に手に入れることのできる小説作品としては県立佐世保北高でのバリケード封鎖を描いた村上龍の「69」と、また漫画では真崎守の「共犯幻想」、映画では森田健作主演の「高校さすらい派」(森崎東監督、松竹)を数えるばかりである。渦中にいた者による大きな回想記もなければ、教育史の立場からそれを取り上げようとした試みも、ほとんど皆無といってよい。あらゆる意味でそれは存在を打ち消されてしまった事件なのであり、当時の高校生がなにを真摯に要求していたかという問題は忘れ去られてしまって、もはや再現が困難である。
…後略   第5章 1969.12.8〜1970.1 より

とまで記していて、たった数時間の教育大附属高校のピケ騒動でしょ、これじゃ文学にも映像にもならないだろう、川柳でも作るけ?なににせよ行動したから勝ちではないのは高校闘争にしろ大学闘争にしろ自明で、闘った犬彦さんやその仲間たち自身の軌跡がこんなにぶざまで不真面目。そんなニューアカ世代も含めバブルとモラル破壊を壮大にプロデュースし、あげく定年退職直前にこんな本書いて「昔はよかったな」と自己肯定されてもあきれるしかない。
もちろんその呆れ加減には、彼らのあとに続くわたしやその周囲の不甲斐ない非政治世代の行動力のなさを自己嫌悪したうえでの諦めの吐息が多く含まれるのだけれど。
「ヘア」のオーディションに行ったとか、ジャズに目覚めればラッパを買いに行くとか、挫折すればすぐにケーキ屋でアルバイトとかそういう行動力の持ち主だから政治活動もまた青春のパトスのよりどころみたいじゃないですか。まあ、どちらにしてもわたしの青春が帰ってくることはない。佐藤優の捏造オナニー自己讃美叙事詩「わたしのマルクス」(あまりにヘンな本だったので感想文を書いた)の罪のなさは不快だが笑えるけれど、都会のおりこう坊ちゃんの“何かをしでかしたかったのに何もできずの中途半端な青春記”の読後に、あのとき何をすればいいのかさえ分からずそのくせ何かを見たような気でいただけのわたしは憮然とおののいている。
今月坪内祐三の「私の体を通り過ぎていった雑誌たち」が新潮文庫から出ている。坪ちゃんはわたしより少し年下。彼はまあ、本を読んでいれば幸せそうだし実際お金持ち宅に育ったのか、プロレス雑誌やら子供時代からたくさん買ってもらっていたみたいで、世代とはべつにして、パフォーマンスしたかったりしそこなったりした高校生たちとは一線を画すんだろうな。いいなあ、そんな連中って、四方田先生そう思いませんか?
ともかく、ぼくら以降の世代は「無言のノーをいう」という方策を選び、政治からオタクへの道にシフトした。いまさらながらひどい針路変更だったことだろうか。