わが悔恨 My funny valentain

バレンタインという言葉から“ラッキー・ルチアーノ”とか“床屋でマシンガン”とかを連想する石丸なので、告白云々や本命などと無縁に生きてきました。時代がね、よかった。20代後半(1980年代初頭か)、職場でアルバイトの女の子が「手作りチョコ」などと言い出し試食させられたとか、OLさんの義理チョコってのはまたその数年あとの時代だったよ。まあ、それはいい。今年はわが友人の恋人というか後妻さん候補というのか、そういう方からゴディバのチョコをいただきまして、その後市販のチョコが食えなくなるという後遺症に悩まされて(あの濃さ滑らかさうっとり度その他を含めた密度が)いますが、まあ美味さはともかくそれは義理でもない儀礼チョコだし、まあそれもそれでよしなんだが、今年のバレンタインディ周辺、わたしにとってはものすごくショックだったのよ。
先月末か、営業所のかわいい所員さんからメッセージが職場に届き、彼女の知人(わたしも知ってる人で)の所属する吹奏楽団が定期演奏会を開くので“だからチケット買って!”とのこと。演奏会は2月15日、“もちろんわたしも行きますよ!”って添え書きしてあったから、そりゃあなんともうれしいじゃないですか。14日の朝にチケットが届いてそこには小さく伝言なんかが貼ってあって、相手は20代半ば、わたしは53歳ですよ。彼女の両親と同世代だ、なんてこったい─とはいえ会ったら何話そうかな、ゆっくり時間が取れればいいななんてふうで気分はいよいよ上機嫌。
それがですよ、その日、仕事終えてジャスコで買い物していたら、同僚のパートおばさんも買い物途中であちらから歩いてくる。やあとかハイとか、声をかけて別れたわけだが翌日15日、仕事準備の最中にそのおばさんったら大きな声でわたしを含むみなに「…なんだか変なじじいが声かけてきたと思ったら、石丸さんだったのよネエ」だと。何言ってんだ、そっちだっていいババアじゃないか(わたしより4歳年下か)。─いやしかしさ、相手はがさつで下品なおばさんであっても、彼女の本質は正直で正論の人本音の人でもある。ああ、そうなのかそうなんだな、普通に接するならば、俺の見た目ってもう“じじい”の範疇そのものなのだなとずどんとそのとき実感。自覚はしていたんだが、それは「真の自覚ではなかった」のだな、客観的に自分を見れてはいなかったのだな。急速にその日のコンサートが重荷になってしまいました。
もちろん、はじめから何の下心もないつもりでいたのだけれど、若い女性に誘ってもらい晴れの場所で会えるぜなどと華やぐ気分がすでにわたしには分不相応なものだったのですね。
ま、会場では普通に会話もし社交辞令で楽団を誉め、彼女の身のこなしに笑みを浮かべて帰ってはきたのだけれど、なんだかもう、そういうことの余韻でもって、いつまでも幸福に浸れること自体が不遜なのだなあ。爺には爺なりの幸福だってあるさと開き直るためには、もひとつピンとこないままで職場のおばさんのひとことに今も顔をしかめたままである、ちきしょうめ。