でも、なんで「光文社文庫の100冊」って作んないんだ?

ヤンキーだのドキュン向けの100冊なんて…ああ、幻冬舎アウトロー文庫もあることだし、もうひとつ売れ筋をみつけないといけないか。
いっそのことで、夏休みに100冊読めばある種の「おたく」の称号を差し上げればよかったのかもしれないが、でも、それじゃ夏休みも楽しくないしね。

書店にて文庫特別版「時代を斬る 佐伯泰英長編時代小説」(非売品)をいただく

他の小冊子に関しても、今度触れますね。
「狩り」「吉原裏同心」シリーズの梗概。すまん、どちらも読んだことありません。スペインものだったかを書いていたんですよね、このひと。そちらも未読。まあ、それはともかくこの小冊子、イントロダクションは面白いし、物語をつむぐ人がわりと素直に手の内を見せてくれたようなつくりになっていて嬉しい。

「狩り」も「吉原裏同心」も不運なスタートだった。片方は文庫縮小、もう一方は倒産、印税も手に入らなかった。
だが、光文社に引き取られ「逃亡─吉原裏同心」はその名も「流離」とタイトルを変更して連作の要となったのだ。
こんど体調を崩して考えたことがある。わたしには物語を生み出した以上、そのシリーズの結末をちゃんとつける責任があるということだ。

8年半で100冊刊行と、著者が記しているけれどこれはまあ、作話環境的にもすごいものです。小説家というのは肉体労働なんだと実感する。校正だのはともかく物語を寝かして醸して発酵さす時間がないと小説未満になるんじゃないかと悲観するのだが、まあみなが村上春樹みたいな作家活動が許されはしないんでしょうが、やっぱりすこしはお気の毒だなとは思う。
実は先月、書店で島田荘司の文庫解説小冊子を貰い損ねた…というのか、鞭打って自らを律したというのか、講談社文庫から出たパンフレットみたいで、ちょっと手が出なかったというのか。そんなことを書くくらいならもらっとけばよかったのかな。