集英社文庫 10年10月刊 高橋源一郎 ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ

解説は歌人穂村弘宮沢賢治の短歌を紹介しつつ彼の資質を“異様な感受性の穏やかな展開という矛盾”を指摘していた。ああ、そうか賢治を読んで感じるとりとめのなさというのは異様さをオブラートしている凡庸さというようなことか。「かなしからずや」「あはれ」という“パターン化”で得しているのか損してるのか。
わたしにとって高橋源一郎のいちばんの仕事は「ニッポンの小説 百年の孤独」いや、続編読んでないけど、きっといい仕事しているんでしょう。

…略…
たとえば、明治四十一年の、フタバテイシメイのこの発言は、彼が創設に参加した「ニッポンの小説」の「基盤」に「何か間違ったもの」(something wrong)が入り込んでしまっていることへの絶望感の表明ではなかったでしょうか。
二葉亭四迷の引用…
フタバテイの「懐疑」は、簡単にいうなら、「文学」では「真実」を描けぬ、というものでした。フタバテイ以外の、ほとんどの文学者たちが、フタバテイが中心になって確立された日本語の新しい散文によって、ようやく「真実」を書くことが可能になった、と感じていた時、フタバテイは、全くその逆のことを感じていたのです。
…略いやこれからが凄いのだが…
 それは文学ではありません より

そんな日本文学の危険な領域から、きちんと分け隔てられた特異な場所で開花した宮沢賢治の文学の謎を、まあこのトリビュート短編集で文学の形でほんの少し解きかけていて、いやあきちんとおとしまえつけているじゃないですか、インテリ源ちゃん。
「注文の多い…」とか「なめとこ山…」とか、くーだらない奴もあるけど「セロひきのゴーシュ」とか「やまなし クラムボン殺人事件」みたいな緊張感を呼ぶ饒舌みたいに文学を壊したい危急な欲求が宮沢賢治というブランドで文学しているみたいな、特殊な技法などうまいものだと思いました。
あとまあ、以前もどこかで記したけれど平山夢ちゃん「Ωの饗宴」の天上版としての「オッベルと象」みたいな超優秀作もあり、まあいつまでも置いておきたい小説集ではあります。