新潮文庫8月刊 奥泉光 神器 軍艦「橿原」殺人事件 上・下

神器〈上〉―軍艦「橿原」殺人事件 (新潮文庫)

神器〈上〉―軍艦「橿原」殺人事件 (新潮文庫)

圧倒的な物語。以前からの奥泉文学ファンなら、ロンギヌス物質や時空の捻じれを行き来する存在などまあ理解できるが“鳥類学者”や“モーダル”の「壮大なホラ話」的な爽快さではないダークで陰惨なたとえ話でありユーモアも充分ブラックで“滅びへの叙事詩”としてのトーンを堪能するしかない。まあ物語の本質やらテーマやら、小説全体を語るには体力が必要なので、いまはいくつか気になった部分のみの落書きです。
■“モーダル”の際も感じたことだが、こちら上・下1000ページなのに、田中啓文蹴りたい田中」にどうも負けているように思うんだな。あちらのあっさり味がわりと余韻を残せたのかもしれない、とはいえあちらは文学史には残らんだろうから困るんだが。
■冒頭(4〜6)で船底の陛下を予言(予告)しちゃうのは、まあテキスト全体を固定さす意味では必要だろうが、バイアスがかかる。1000ページ使った怒涛の如き壮大な物語空間に対峙というかそれに匹敵しちゃう物語的エネルギーの負荷を与え、作者のイメージを萎縮させたのでは。そのへんに“蹴りたい”の勝ちといいたくなる何かがある。
■106「石目、お前は何者だ?」下巻296ページ〜のラストで北瀬中尉が主人公石目上等水兵にむかい「バークリーの毒入りチョコレート事件がけっこう面白い」というんだが、さあてこれが「ただ面白い」だけの紹介じゃないと思うんだが、肝心の毒入りチョコレートの謎解きをわたしが覚えていない。シュリンガムとチタウィックその他素人推理マニアが殺人事件の解明を試行錯誤でおこなう集団アームチェアー探偵小説(黒後家蜘蛛みたいな)で、犯人は実はその集団中の女性だった─という流れは憶えているんだけどねえ。
えと、ネタばれページで検索したけど、それほど画期的なトリックではなさそう。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~sakatam/book/chocolates.html

トリックや謎解きに重点が置かれていた当時のミステリに、動機とか殺人心理とかを主体としたというのか、現代ミステリ作家も数多くこれをベストに挙げているし。だから、そうみるなら「(今回も)推理は無意味だよ」といっているのか。ネズミが出てきて橿原船底倉庫と埼玉県が通底し行き来する後半から、もう推理なんてどうでもよくなるんだから、それが答えでもいいのか。でも「グランド・ミステリー」では毒薬を飲むことを決めていたとか謎解きはあったわけだし、こちらの破綻はちょっと品格が落ちる。
■主人公石見は白鯨のイシュメールからだそうで、でも小林信彦は何て名前の小説だったか同じくイシュメールの分身に石丸って名付けていたなあ…ってどうでもいいか。
■「大和」を「矢魔斗」「武蔵」を「無佐志」との改名はちょっと疲れる。けっこう矢魔斗は重要な脇役なので、頻繁にその名が出るたび立ち止まっちゃう、暴走族じゃないんだしね。缶は罐のほうが味が出ないか。ついでに「橿原」の名がなぜか咀嚼しがたかった。