講談社文庫10月刊 奥泉光 シューマンの指 すまんことです大いにネタばれ

シューマンの指 (講談社文庫)

シューマンの指 (講談社文庫)

きちんとミステリなのでネタバレは禁じ手なんだが、小説を語るにはネタばらしした方がとてもやりやすいんだし。
エピローグで早熟の天才ピアニスト「永峯修人」はいなかったというか、主人公の分身だったというのがオチなんですけどねえ、それはあまりに厨ニ病の主人公ではないか、修人=シューマンはまあよい(読書中にも読み辛かった)けど全てが主人公の妄想というか、いやまあ教師とホモ関係になったせいで自我が分裂し修人という架空の人格が出現したのならまああり(だったらその葛藤がないといけないんだがそれはない)かもしれぬが、それが明かされたエピローグから本文を読み返すとあまたの破綻がでてくるのではないのか、まあ主人公の独白全部が妄想でしたオチで来られればそれでもいいのだけど。
あとエピローグオチなら、その前のどんでん返し“修人の殺人告白は嘘で主犯の美術教師のいいなりに動いただけ”というのはいらなかったんじゃないかと思えてくる─でもそうするとエピローグがもっと長い蛇足になっちゃってただの説明文になるか、それも嫌だし。
とてもいい時代にわたしは生きていて、寝転がって読書中にiPhoneのYouTubeトッカータOp.7やピアノ協奏曲をテキストに合わせて聴いていた。「海辺のカフカ」読みながら大公トリオとか聴けたら(まあ聴けたんだけど)もっとよかったかと。そのうえでの感想だけれど、音楽に聴き惚れるという体験がまったくなかった。まあもちろん“読書の妨げで困った”わけではないしドラマティックな演奏だと感心もしたけど、わたしにはもうひとつグッと来ないんだな、そのへんがちょっと辛い読書にはなった。
小説前半のつかみの部分でiPhoneで「ダヴィッド同盟舞曲集」を流しつつ主人公と美少年の早熟ピアニストが頬を寄せあい語る音楽論に「ほおっ」と引き込まれはしたけれど、残念ながら、そういう“陰になった見えない部分”を感じることができなかった。

前略…修人は珍しく熱のこもった調子で語った。
シューマンの曲はどれもそうだけれど、ひとつの曲の後ろ、というか、陰になった見えないところで、べつの違う曲がずっと続いているような感じがするんだよね。
」…(中略、半ページほど飛びます)…
僕はこれを見ると、なんだかドキッとする。たとえば、いろいろなところへ旅行をして、いろいろな風景を眺めたとして、そこに必ず同じ人物が立っていたら、おかしいだろう?旅行に行って、何気なく写真を撮って、どの写真にも、必ず同じ人物が写っていたら、びっくりしない?するよね。僕は、この音符の陰に、なにかが隠れているような気がするんだ」
「死」と「狂気」が隠れているのだ。と今のわたしなら答えるだろう。…後略
  講談社文庫 p.45〜47

物語に入り込みつつある読者をぐいと引きつけ掴みこむ巧みで麗しいシーンなんだけれど、YouTubeピアノソナタ聴きつつページをめくり「フムフム、そうなんだよ、なんか演奏の合間に見え隠れするんだよ…!」とはならないで、だからこのあとはまあわりと音楽批評の部分は流しちゃったわたしでした。あとの部分はまあいろいろ泰西の名演として理解するとかね。天才ピアニスト永峯修人の演奏を聴く主人公が「地層」(イデアとしての音楽)と「露頭」(現出された演奏)と理解するのはまあ音楽を志す人だとどうしても通る道なんだろうが、でもそれをいうとわたしにはもっと聴きやすく読書に最適な音楽だってあるんだよね。シューマンと狂気については大昔読んだ小林秀雄のひとことで、まあそういう人のそういう作品だとわたしにバイアスがかかった部分もある。

前略…
自分は音楽家だから、思想や感情を音を使ってしか表現できない、とたどたどしい筆で、モオツァルトは父に書いている。ところが、このモオツァルトには分かりきった事柄が、次第に分からなくなってという風に、音楽の歴史は進んでいった。…和声組織の実験器としてのピアノの多様で自由な表現力の上に、シュウマンという分析家が打ち立てた音楽と言葉との合一という原理は、彼の狂死が暗に語っている様に、甚だ不安定な危険な原理であった。
…後略
  小林秀雄 モオツァルト 4より

のっけに記したとおりで、二転三転の種明かしはそうとう臭いし、すべて主人公の妄想というのでは(冒頭の手紙やアメリカでの新聞の切り抜きも妄想の産物なのだろう)納得できないぞというのが、ミステリとしての本書を読み終えたうえでの感想。それはそれとして読み物としての格調の高さ教養の深さ物語のいとおしさなど、多くの美点を持つ作品でした。作者の文学的膂力を実感した読書体験でした。