創元推理文庫8月刊 ヘニング・マンケル 五番目の女

五番目の女 上 (創元推理文庫)

五番目の女 上 (創元推理文庫)

失踪したカタリナ・タクセルの母からテニス仲間という存在をようやく聞き出し、テニス仲間から元列車ウェイトレスをむりやり思い出してもらい、元ウェイトレス現ホバークラフトウェイトレスは、カタリナ・タクセルの3年前のある変化を思い出して警察は彼の国の鉄道弘済会をせっつきついに犯人を特定、逮捕に至るまでのラストの疾走は愚かしくかつ厳かに、そして強く激しく美しく読む者の心臓をわしづかみにしてみせる。
フーグルンドが銃で撃たれる必然性は見いだせないが(数作後にレンナルド・コルベリのように警察を去る伏線か)、ヴァランダーの狼狽や自責や震えがじかに伝わり物語の振幅を理解はできた。ただしエピローグの冗漫ははもう少しどうにかならないかとも思った。
とはいえ読み終えたうえでの疑念ですが、傭兵ハロルドはいったい何だったのか不明。最初の被害者宅の異変を知らせたタンクローリー運転手に「もっと絞ってやる」みたいに言っていたのにそれもなかった─あの尋問シーンは笑えたが。捜査官のいとこの助産師は出産退院したカタリナ・タクセルについてもっと知っているはずだし、夜の病棟事件はあれで終わらすにはひどく魅力的だし─それにそんな男の子どもをどうして産むのかも記してないし。その他いろいろエピソードの破調や破綻に長編としての粗雑さこなれなさを感じた。また被害者男性に共通するサディスティックなDV嗜好に関して小説内では説明不足、というかそこをもう少し際立たせないとエピローグの次の一言は全く生きない。

警察の中にはイヴォンヌ・アンデルの行為に対して、ある種の同情的な態度があることにヴァランダーは気がついた。そのような理解があることに彼は少なからず驚いた。─後略

あっ、上記犯人の名前ですが、まあこれネタばれにはなってません。「目くらましの道」もそうだったしね。「目くらましの道」のほうも児童虐待ロリコン大臣などの所作などはあまり記してなかったかもしれないが、でも犯人の激情と犯行の残忍さの意味はよく理解できた。母を手術する堕胎医が原風景のようだが、それだけでまったくの赤の他人を殺すほどのパワーになるのだろうか。
あっ、ただ小説内にヴァランダーが過去に離婚した妻にたいし暴力を振るったこと、それを記憶の底にしまっていたことなど、DVのあくどさが書かれているが。
なぜスウェーデン社会のタガが外れてしまったのかを小説中で主人公は独白だったり会話だったりで表出している。

第二次世界大戦後築き上げられたスウェーデンの礎石はみんなが思うほど盤石なものではなかったのだ。礎石の底が泥土だったのだ。戦後復興の新興住宅地が開発されたころ、よく“非人間的”だと批判されたではないか。あのようなところに住む人間たちに“人間らしさ”を保てと求めることは無理なのだ。社会は硬くなってしまった。自国にいながら必要とされないと感じる人々は、攻撃性と軽蔑をもって社会に対抗する。無意味な暴力などないことをヴァランダーは知っていた。…
…紅茶を注ぎながら、リンダ(ヴァランダーの娘)はなぜこの国に暮らすのはこんなにむずかしいのだろうといった。
「ときどき思うんだが、それはわれわれがくつ下をかがることをやめてしまったからじゃないだろうか?」
リンダは不可解な顔で父親を見た。
「いや、本気だよ。おれが育った時代のスウェーデンは、みんなが穴の開いたくつ下をかがっていた時代だった。おれは学校でかがり方を習ったのを覚えているよ。そのうちに急にみんなそれをやめてしまった。穴の開いたくつ下は捨てるものになった。…中略…それがくつ下だけのことなら、この変化はそんなにおおごとではなかったかもしれない。だが、それがいろいろなことに広がった。しまいにそれは目には見えないがいつもすぐわれわれの手近にあるモラルのようなものになってしまった。おれは、それがわれわれのものの見方を変えてしまったんだ。…

まあ、けっこういいこと言ってるわけです。社会の縮図としての犯罪を警察官という立場を超えて的確にとらえていると思う。だがその娘との会話のすぐ後でどうなるのか。これはとても恐ろしい。

「バイパ(ヴァランダーの恋人)とはどうなの?」
「彼女とはうまくいってるよ。これからおれたちがどうするかはわからない。こっちへ来ていっしょに暮らしてくれるといいとおれ自身はおもっているんだが」
「バイパがスウェーデンに来るって、どうして?」
「おれと暮らすんだよ」ヴァランダーは娘の言葉に驚いて、繰り返した。
リンダはゆっくり頭を左右に振った。
「よくないというのか?」
「悪く思わないでね」リンダが言った。「でも、パパは自分がいっしょに暮らすにはむずかしい人だということ、わかってないのね」
「なぜそんなことを?」
「ママのことを考えてみて。なぜママがほかの暮らしを選んだと思うの?」
ヴァランダーは答えなかった。不公平なことを言われているという気がした。
「ほら、怒った」
「いや、怒ってはいない」
「それじゃなに?」
「わからない。疲れているだけだろう」
リンダはいすを立ってヴァランダーの座っているソファに移り、すぐそばに座った。
「パパのことが好きじゃないということじゃないの。わかってね。わたしはもう子どもじゃないということ。だから話もいままでとはちがうものになるのよ」
ヴァランダーはうなずいた。
「おれがまだそれに慣れていない。きっとそれだけのことだろうな」…後略

上巻ラストの部分だ。まあ、つまりそういうことなんだろうが、読んでいたわたしも強く打ちのめされました。よくいうじゃん、「善人であるより悪人であることに気づくほうが難しい」みたいな。まあでも実の娘からはいわれたくない最悪の一言ですよね。だがそれがあるから、それ以前の社会のしくみが生きてくる。そしてそれほどジェンダーフリーへの道は遠くつらく、男尊女卑の根は深いのだとね。
前作にも感じたが、組織が深く細やかに描かれているから五里霧中の捜査の試行錯誤がこんなに重苦しく陰鬱であっても、読みすすみ、作中人物とともにため息をつくことができる。独善的だしミスも多くすぐ苛立つ警察官が主人公であるが、その苛立ちや舌打ちにシンクロできた時の読書の喜びはとてもうれしいものだ。
この小説が上梓された1995年ころ、日本でも高村薫が重厚に構築されたすてきな警察小説を書いていた。あれからもっともっと底が抜けた現代を彼女の警察小説でもう一度読みたいものです。
前作「目くらましの道」の連続事件が終わり、老父とのイタリア旅行を終えて帰宅したら次の連続事件と、なんだかすこし時間が近すぎてはいないかとの疑問はあった。「目くらましの道」の感想文は以下に。

http://d.hatena.ne.jp/kotiqsai/20070506#1178456423

ありゃりゃ、3年以上前の日付ではないか。訳者柳沢由美子はストックホルム大学で勉強したスウェーデン語堪能の人だろうが、翻訳が決定的に遅いのではないか。高見浩のベッグ・シリーズは英語からの孫訳だったがそれでもいいからスピードで願います。