購入したのは中沢けい「うさぎとトランペット」

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日比勝敏という批評家が解説で“ちょっと幸せな気分になった”と記していたこと。

(前略)
「うさぎとトランペット」には、「楽隊のうさぎ」で登場した中学生たちがすこしだけ成長して再び姿をみせている。「楽隊のうさぎ」は、やや大袈裟な表現かもしれないが、至上の時を迎える吹奏楽部員の高揚感を余すところなく描いていて、読んでいてどきどきする。だが、至上の時を描くということは、この後の彼らの人生はどうなってしまうのだろうという、ある種の「暗さ」を伴っているのである。そこに奥行きと厚みが生まれ、だからこそ感激も深くなるのだ、と私は考えていた。しかし、「うさぎとトランペット」で彼らが再登場してきた時、その後も彼らは何だかんだ言って音楽への愛情を失っておらず、しっかり生きていることが分かるのである。
(後略)

「楽隊のうさぎ」主人公の奥田カッチンが、ふてくされた高校生みたいな台詞をはくのがたしかに嬉しい。

「だって、僕は昨日、邪魔だって言われたんですよ。そこまで言われちゃ、僕だってちょっとやってられないや」(p.177)

そうブータレてるカッチンに比べたらしょうちゃんは、おとなになったというのかぐんと出世したねえ。

しょうちゃんが笑うと、なんだか、苦い感じがする。口の中で仁丹を噛みつぶしたみたいだ。(楽隊のうさぎ p.51)

いや、「楽隊のうさぎ」の登場人物がいるからといって、この作品はちっとも続編ではない。吹奏楽団の高校生たちが宇佐子の前で世間話などしてるがほとんど小説的には不用。もちろん、小学生の宇佐子が大人の世界を垣間見るという設定がわるいわけではないのだけれどね。
主人公の宇佐子は小学5年生という設定どおりで、人間関係・家族関係では不器用極まりなく動きたい時・行動しなくてはいけない場面では全然巧みに動けず、動かずにいたいのに流されたり周囲の思惑に縛られたりで、それらの憤然や痛々しさは読者に伝わるのだけれど、彼女の躊躇や蹉跌が共感にまでたかめられはしなかった。
彼女が、よい耳を持っているというのが、比喩ではなく“鋭い感受性”なのか“隠れているものを見分ける心”みたいに描かれる(他人の本心を聞くとか)とやっぱり読者であるわたしは大変不満足。だってそういう“真実を見とおせるる感性”を持つことあたわずわたしやあなたは、いまここに50歳のぶざまをさらしているんじゃないの?といいたくなる…って、誰にだ。
とはいえ、純文学。宇佐子とミキちゃんが花の木公園でうさぎと遭遇するシーン。文庫で4ページほどは、読者のこちらも息を詰め、コトリとも音をさせぬよう周囲を見回し読み進んだものだった。

(前略)
…二人の女の子は我慢して、息を潜めた。草を食べるのに夢中になっているうさぎよりも、仲良しになった二人の女の子のほうが臆病になっていたのかもしれない。うさぎは人の気配に気付くと、すぐにでも逃げ出しそうだった。
うさぎは耳を澄ましている。きっとその耳の中には宇佐子が聞いているのと同じ冬を呼ぶ木枯らしの声が響いているのだろう。
うさぎは食べることに夢中だった。草を無心に食んでいる頬は細かく動き、食べることそのものが生きることに無心で夢中な様子に重なっていた。二人の女の子は白いうさぎと同じように息をし、眺めることに夢中になってしまう。うさぎの耳の中で木枯らしが冬を呼ぶ声がする。若い冬だ。その若い冬のきりりとした冷たさが二人の女の子のお尻のあたりにいたずらをして、お尻がすっかり冷たくなるのも気付かずにじっとうさぎが草を食べるのを眺めていた。二人が息をしないでいられるならば、臆病な生き物であるうさぎに気付かれないために消えてしまうこともしただろう。…
(後略)

汚いものをあまりに多く見てきたわたし。汚い行為に加担したこともあったし、被害者になったことだってある。そんなわたしが言うのだけれど、純粋な心を保持さすことが教育や臨床心理学などで可能なのかって、可能なわけないさね。

でも、そんな人生って航海の最中、“おみそ”なんていわれてたあのしょうちゃんが吹奏楽団を作っちゃったわけで、そこだけはすごいですね。