試食の想い出

青山紀伊国屋にて、平日の午前中だったでしょう。月に一度くらいのちょっとした贅沢でイングリッシュブレッドや、見知らぬ香辛料・当時はなかなか手に入らなかった地方の名品なんかの買出しが楽しかった。
紀伊国屋伊勢丹ガーデンズが今はないなんて、なんだかわたしの知ってる素敵な東京が消えてしまったような気がするけれど、いまじゃ駅ナカなんぞで充分瀟洒なお店がいっぱいあるんだ、それら高級スーパーの必要がなくなっただけのことなんだね。
それはともかく10年ほど前の紀伊国屋にて。
平日の午前中、暇をもてあましてたみたいな試食販売のおばさんが、営業用を超えた笑みで私に呼びかけた。「どうですか、すてきなチーズなんですけど、味見していきませんか?」
ご近所のスーパーなんぞではそういう試食販売の声がかかってもやんわり断るのが流儀のわたしだけれど(ハードボイルドの主人公に一番似合わぬ風景かもね…試食に応ずるなんて)、ちょっと高級チーズの試食販売なんてシーンを想定してなかったので、引っかかっちゃいました。
「熟成したゴーダチーズなんですよ、ワインにも合うし」
「ああ、そうね、いいね、赤ワインに合うよね…(適当な応答のわたし)」
「そうですよ、どうぞひとくち召し上がってみては」と、ペラペラのナイフで三角形チーズの端を削って差し出すおばさん。見た目よりも口の中で貰った一片は芳醇に溶ける。ふーん、すごいね。「2年物です。ほんと、まろやかでしょ」舌の粘膜に沿ってうまみの領域が広がるのはすごいが、これって熟女の濃厚なキス(経験ないけど)みたいだぜ。
「ああ、そういう方も大勢いるんですよ。だったら、こちらを試してみませんか」
ふーん、そういうことね。ゴーダチーズの試食販売会では、半年・1年・1年半など寝かせ具合の異なるサンプルを準備しておくみたいだ。で、なおかつ、あちこち食べ比べると自分にあった発酵具合があるんですよね。フーム、本当にワインが欲しくなった。美味しいチーズなんて記憶を遡っても、こんなスーパーの風景しか甦ってこないんです。