中公文庫08年5月刊 小島信夫・保坂和志 

小説修業 (中公文庫)

小説修業 (中公文庫)

前略…
この前、第一回のぼくの書いた<復>に当る文章を読んだあとのことをぼくは思い出した。ぼくは「白十字」に原稿を前にしたあなたを残して、国立の駅の北口から南口に渡って、島田文具店から原稿用紙を買って戻ってくると、あなたはずっと暗い表情をして、「読みました」といい、
「先生はイジワルだ」
と呟いた。そのあと、
後藤明生さんが、先生に敵意を抱いていたのは、こういうことだった」
といった。それからいつもの顔にもどるまで話をしていた。もどすために話をしたわけでもなかった。
 往復書簡 2 小島信夫から保坂和志 ラストの部分

いやはや、楽しいですね。…これを読んでわたしの妻は、「これはもう小説だねぇ」とよろこびました…と、次回の冒頭で保坂もうきうきしてました。新潮文庫で大昔に「アメリカン・スクール」読んだだけのわたしは、「粘菌が広がるような…」だとか「カフカの直系」など保坂の絶賛のものいいがもうひとつわからないのだけれどでもまあ、保坂の実践する(書いている)小説形式を理論的に定着さすためには、このような大先輩との一筋縄ではいかぬ往復書簡の形式で肯定さすしかないのかな。
「小説の自由」とか「書きあぐねている人のための小説入門」だとか、小説を書こうという人にとってはほとんど何の役にも立たず、でも実作品ではネコだの古い家だの平坦な会話だのベイスターズだのしか提出しない作家なりのステートメントとして小説の概念を考え続けてることだけはよくわかり「この人って自己肯定にかんしてはそうとう粘るのね」と感心します。<ぜんたい><すべて><平凡>というキーワードで小説の構築を語りたい(語ってもらいたい)保坂なのに、粘菌みたいな小島がはぐらかして(ボケかもしれぬが)でもそのぼんくらさ加減が保坂的な小説ワールドで結果的には(保坂の小説ファンにとっては)読書の楽しみをいただいた。

『「小島信夫」というシステムは新しい世界観や人間観に耐えうるシステムだということです。…後略』

なんてあとがきで記してあって、でもそれって「もちろん『保坂和志』というシステムもね」といっているのとおんなじなのね。それでいいけどさ。