今野敏「朱夏」─ネタバレ読後感

朱夏―警視庁強行犯係・樋口顕 (新潮文庫)

朱夏―警視庁強行犯係・樋口顕 (新潮文庫)

呆れるほど弛緩した小説。読みやすかったという事実は否定しないが、でもTVドラマ程度のストーリーテリングで薄っぺらな印象しか読後に残らない。
プロローグの狂言回しでしかないコンビニ強盗。全体の事件の犯人たる地域課の警官・安達が足払いをかけ犯人を捕らえてから「誉められたのは2度目です」と登場する。登場の仕方が悪いわけではないけれど、ドラマとしてならコンビニ強盗・警備部長脅迫・樋口の妻誘拐事と3つの事件をもっと絡めるべきでなかったか。チンケなコンビニ強盗がいて、尊大な自尊心の犯人安達がいて、主人公である優秀な警官樋口がいるほうが、時代を俯瞰できたのではないかなと。
いや、ちょっと矛盾するけどこの誘拐犯の立ち居地が、読み終えて依然すっきりしない。《樋口を警官として一目置く安達巡査が一種のゲームを挑んだ。誘拐した樋口の妻に、警備部長を狙撃する立会人となることを要求するために。》とまあ、それが小説の骨子なんだろうが、でも狙撃の計画が成功した後に樋口の妻は殺すつもりか。やっぱり誘拐の理由がわからないなあ─立ち会わせたいだけなら、「激高仮面」の脅迫状を置いたウィークリー・マンションに誘拐した妻を手錠で縛りつけ、テレビをつけっ放しにしておけばいいのだし、いや、それよりかんたんで樋口宛に脅迫状を送り、「さあ、ゲームの始まりです」なんて挑戦状付きで行動すれば充分よかったようにも思える。
「自尊心だけが大きく肥大した甘ったれ」と、犯人・安達を規定し、ついでに最近の若者は…みたいな括り方で小説全体の骨子が貫かれているのだが、こりゃそうとうなステレオタイプだ。氏家という主人公の仕事仲間が、個人的な捜査の相棒を務めるわけだが、2人の作戦タイム中、ファミレスで酒を飲み浮かれる高校生の集団に一括するシーンが出てくる。これにはげっそりだぜ。
警察小説を読むとき、わたしなりの試金石というか古典として「マルティン・ベッグ」並みならいいんだがなあという期待感で読み始めるわけだが、もうベッグ的なストーリー・テリングでは時代遅れなのだろうか?
たがの緩みかけた社会の中で、スウェーデンの優秀な警官たちも多くの案件を抱え社会の矛盾に呆れ苛立ち、ほつれてぐしゃぐしゃになった人間関係を根気よく調べてゆく。警官という職業の陰鬱さを彼らは素肌で実感し、スウェーデンの優秀な警官たちは苦悩する。
警官(元警官だが)が犯人ならベッグ・シリーズなら「唾棄すべき男」か。犯人の絶望的な心情を深く察したベッグは、単身ビルの屋上によじ登ったが小さな齟齬から犯人に胸を撃たれバルコニーに宙吊りになる。
無能な指揮官マルムの命令を無視して、胸襟を開きあったコルベリとラーソンとがミッションに取り掛かる。犯人の銃口が自分の胸に向いているのにラーソンは仁王立ちの姿のままで反撃をしない。ああ、だからプロフェッショナルの仕事振りがベッグ・シリーズでは丁寧に描かれ、「朱夏」のほうでは若者を萎縮させて溜飲を下げるだけ─この差は絶望的だぜ。
タイトルにネタバレとは記したが、夢の中で氏家が違和感を持ち犯人像を特定するなんてんだからそちら関係でのスリリングさとは無縁。とってつけたように“不審なワゴン車”や“学生時代に使っていた部屋”なんかが出てくる。上・下2巻みたいなミステリが好きなわけではないし、ディティールに拘泥したからといっていい小説になるわけではないにしても、欲求不満だけが残る小説で終わらせてはいけない。
巻末に記してあったが、この小説、前世紀98年の刊行だそうだ。読んでないけど新潮社からは「隠蔽捜査」シリーズが今世紀出ているわけで、そろそろ文庫化だろう。世紀を跨いで今野敏ストーリーテリングが一層上昇しただろうことを、夢見てはいる。