文藝春秋の新刊 2006・3「アスパラガス」©大高郁子

ワォッ!これって春の空気の色です─現在の裏日本に最も縁遠いカラーね。cornsilkというのか“春眠暁を覚えず”色なんて名づけたりして。でもいまむずむずと、穂先に色づきかけてる赤紫がこそばゆく、でもその生命力が頼もしげだし、いやいや、実はわたし、美味そうって婉曲にいってるだけだよ。
硬めに茹でてマヨネーズでもいい、オカカと醤油の和え物だっていいじゃないですか。もっとシンプルに、焼いただけでも美味いんですよね。庭のアスパラガスっていうやつは美味そうだなって思う間もなく、巨大植物に変身しちゃうんで、驚きというのか植物の強さを感じる。
50数年生きてきたわたしですが、そのうちグリーンアスパラを知らずに生きた前半20年があったわけで、そう思うと不思議なものです。ブロッコリーも青梗菜もシメジも舞茸もキウイフルーツも、30年前のスーパーには並んでいない。
缶詰のアスパラガスはあった。細長い缶詰を開け流しだせばどろりぬらりとした見た目と食感、その不気味さを有難がっていたような気配があった。“大人の味だな”って思ってはみたけど、実際あれはオトナも好きじゃなかったでしょう。ランチョンミート、コンビーフ、サラミソーセージ…オードブル文化というのか、薄いヨーロピアンのメッキとデコレーションが悲しい背伸びの時代をわたしは肌で知っている。
生臭いだけの不健康で不気味な、あの日のホワイトアスパラが盛られたオードブルを食べずにすむのは、貧しい時代を生き抜いた進歩の賜物なのか、それともただ資本と流通革命の波に乗せられただけか。とまれわたしはインドネシア産の海老を食い、ニュージーランド産のかぼちゃを食い、ロシア産のタラコを食い、モーリタニア沖のタコを食い…。グリーンアスパラを含んだ巨大スーパーを“外部胃袋”として生きてます。
にょきにょき元気に生えてくるアスパラの神秘。そうだな、貧しさは克服したけれど、でも最も新鮮な驚きが大いにわたしから遠ざかってはいるなあ。