新潮文庫 4月刊 ひろさちや 釈迦物語

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オートマチスムとはいわぬが、著者からするとこれくらいの啓蒙書なぞ目をつぶってもすらすら書けるでしょ、でもってそのすらすら読み終えたこちらには仏教の奥深さとか教義とかが分かるわけでもない、いったい仏教の何がこうさせてんのか?

さて、釈迦が菩提樹下において悟られたものは、
─縁起の理法─
であったとされています。この世のすべてのもの、すべての事象は、因(直接原因)と縁(間接条件)によって生じます。ということは、因だけによって物事が生じる・起きるのではありません。植物のたねは発芽の因ですが、たねがあっても、そのたねを机の上に置いておいたのでは発芽しません。それを土に蒔き、適当な水分、適当な温度…といったさまざまな縁がととのったとき、たねは発芽するのです。
また、一メートルの棒そのものは、長くも短くもありません。二メートルの棒とくらべたとき一メートルの棒は短くなり、五十センチの棒にくらべて一メートルの棒は長いのです。このように、事物は他の事物を縁として存在しています。そういう見方を教えたものが縁起の理法です。
 6 梵天による三度の懇願 55ページ

菩提樹の下で瞑想した仏陀はついに悟りを開きました─とだけ記すわけにはいかないし、でも苦行でも得られなかった悟りっていうのが、まあ現象論の初歩みたいで、当時のインド哲学だとこの程度の認識って“悟り”とかいうほどのものだったのか疑問があるな。それに続く四諦八正道の説明も丁寧に解説してもらっているんだがこれだけ簡単に解説できるのなら、そうすると“悟り”の境地っていうのが達磨大師が9年坐禅するとか禅問答とかとはちょっと違うんだよね…でもまあ哲学じゃなく宗教なんだしこれでいいのか。
3千年以上昔の釈迦の行状なんだから、こういうふうにきちんと記せば記すほど“ちょっとねェ…”となっちゃいそうで、もちろんそのへんを工夫して書かれているんだがやっぱりまじめに読んでるうち中途半端さにまいってしまい、読書のスピードがある時ガクッと落ちもした。