早川書房7月新刊 新城カズマ マルジナリアの妙薬

マルジナリアの妙薬

マルジナリアの妙薬

なんだかとてもおかしいなあ、作家が勝負をかけるのはこことは違う場所だと思うし、収録作の中にはきちんとした長さと構成力をかけてあげないといかん奴らもいるではないか。第7回 東都奇譚介錯御無用と第9回 サン=ジェルマン=デ=プレのカフェにて(1938年製作)の2作か。ま、それらは面白く読んだよ。このままで放り投げておくのは惜しい作品とは思ったし、でも帯に書かれていた「物語的想像力の可能性」云々はいいすぎだと素直に思う。
ゲーム作家でもある(知らないけれど)著者が書物の限界を量り、その境界あたりでおいしい商売を想い浮かべているのでないのならば(それはそれでご苦労さまなことだが)、もっと普通に作者は読者に直接届く作品を用意すればいいのではないかと素朴に思う。
読者はよき作品に出会いたがっている。そして読者と作者との出会いに王道はないはずだ。映画とかアニメとかゲームとかそういうメディアではマスであることが必須条件でパブリシティとかが有効になる(高野文子の「黄色い本」が8万部売れてマイナーだとさ、朝日新聞に書いてあった)ことと、文学であることとにはなんの接点もない─現代詩の新刊で1千部以上ってないでしょ、そういう現場を著者が知らないだけなのではと変に勘ぐってしまう。出版不況を作家がいきどおってもおかしなだけだしだったら山本宏みたいにiPod で配信すればいいだけのこと。作者はその名も知らないかもしれないがちょっと昔に教養みたいなもので名を挙げた小林秀雄の一言を貼っておこうか。

杉村楚人冠氏の感想だったと記憶するが、印刷の速力も、書物の普及の速力も驚くほど速くなり、書物の量はいよいよ増加する一方、人間の本を読む速力が、依然として昔のままでいる事は、まことに滑稽の感を起こさせるものだ、という意味の文章を読んだ。僕は読書の神髄というものは、この滑稽のうちにあると思っている。
文字の数がどんなに増えようが、僕らは文字をいちいちたどり、判断し、納得し、批評さえしながら、書物の語るところに従って、自力で心の一世界を再現する。このような精神作業の速力は、印刷の速力などとなんの関係もない。読書の技術が高級になるにつれて、書物は、読者を、そういうはっきり眼の覚めた世界に連れて行く。逆にいい書物は、いつもそういう技術を、読者に目覚めさせるもので読者は、途中でたびたび立ち止まり、自分がぼんやりしていないかどうか確かめねばならぬ。いや、もっと頭のはっきりした時に、もう一ぺん読めと求められるだろう。人々は、読書の楽しみとは、そんな堅苦しいものかと訝るかもしれない。だがその種の書物だけを、人間の智慧は、古典として保存したのはどういうわけか。はっきりと目覚めて物事を考えるのが、人間の最上の娯楽だからである。
 小林秀雄 読書についてより

ま、措定された最良の読者を驚嘆刮目さすことが「最上の娯楽」を提供させた作者の面目だし矜持なのですよと、わたしがいってもちっとも説得力はないか。いずれにせよゲームや映像でこそ映えるストーリーやドラマはいくつもあるわけで、マルチクリエーターたる新城カズマがどの形式を選ぶかを選択することは自由で、それが帯に記された「この世で最後の活字本だとしても後悔しないぐらいの。」という言葉はちっとも不自然ではないし、どうぞそういうことなら文学から撤退したら如何ですかでいいのでは。
第12回 アンケートの時間ですみたいな実験小説、期待して損した。実験が破綻してもちっとも構いはしないけれどもすこし遠くが推し量れる"すてきな失敗作"になれなかったものだろうか。