文藝春秋10月新刊 東海林さだお「微視的お宝鑑定団」

微視的(ちまちま)お宝鑑定団

微視的(ちまちま)お宝鑑定団

古希をすぎたショージ君なので、庄野潤三とまではいかずとももすこし枯れた文体を手に入れ損ねたのかと少し気になる。鹿島茂に「どーだ!理論」を変に称揚→止揚されちゃったせいで山っ気がすぎたのでは。微視的かつ情けなく「どーだ」の貧乏くささを遡及したならばいますこしこちらもお付き合いできそうだったのだが。
だいいちショージ君のエッセイっていままでもほとんど微視(ちまちま)的視点で小市民的日常を肯定的批判してきたのではなかったか。
まあでも年齢を感じさせぬほうの紀行文「大島でくさい!うまい!のぶらり旅」「飲んだぞ日本一の居酒屋で」などは読者もウキウキ。老骨に云々…などをぜんぜん感じさせぬ軽薄文体は嬉しい。

…(くさや定食を食べ始め)…
柔らかいくさやはしみじみとおいしい。
カチカチのくさやよりはるかにおいしい。
くさやのおいしさは、まず身が歯に当たったときから始まる。
歯が早くも塩気を感じる。
その塩気は塩の塩気ではなく、塩が発酵した塩気である。この塩気が歯においしい。
もちろん塩が発酵するわけはなく、魚の身やハラワタといっしょに発酵した塩。
…(ちょっと省略)…
僕の歯はくさやの塩気だけは感知する。
感知しつつ箸で身をほぐして口に入れると、口中いっぱいの臭気、おいしい臭気、そしてそのあとの干して少し堅くなった魚の身の歯ざわり、そしてそのあとのゴハン、そしてビール。…(後略)

ハグハグ感、アグアグ感絶頂です。青春記ラストで初の連載が決まった時、編集者の前で両手を平泳ぎのように回していたというその身体性のリアルが健在だ。改行のテンポもいいけど東海林さだお的語彙の辞書も機能させたいなあという気にさせる。