吉田修一「長崎乱楽坂」新潮文庫 19年1月1日

長崎乱楽坂 (新潮文庫)

カバーの銃を持つ少年(画・ゴトウヒロシ)が素敵。掘りが深くやさしさを秘めたはかなげな少年の顔なのに、不自然で病的な土色の肌。伏目の瞼が諦念を表していた。
最終のページで離れを含め、彼らの住んでいた家が焼け落ち、約束事のように悲劇の舞台が地上から消え去った。すてきな読書体験だったのか、まだ疑問だ。著者吉田修一は「ニッポンの小説…」で、高橋源一郎から揶揄ではないけど、失笑されてた。まあほとんど作者の力量をどうこういわれたわけではなく、たまたまニッポン文学代表にされた不運もあったのでしょうが。
最近の読書体験の妙でいうとすると「カンバセーション・ピース」中で繰り広げられた“家の記憶をメタファーとして括弧で括る”という作業としてはこちら「長崎乱楽坂」も同じフィールド、でもまあこちらはとても通俗的だけれどそこが模範解答みたいな「読みやすい小説」として起承転結していました。
高度成長期の有象無象から抜け出し、中流化幻想の中であっさり淘汰されていった愚連隊上がりの新興やくざの興亡を10数年という単位で巧みに切り貼りさており、長男駿の壊れ具合と家の没落事情がシンクロしていて、読者として「こういう人生(のシナリオ)を割りあてられた人間もいるんだ」と、ちょっとは詠嘆してあげたくなる。いやいや、自分を振り返ってみてそういう投影はなしだと、にがく悟るけどさ。
男の子が主人公だと「母の存在」など微妙な部分が抜け落ち、すこし不満だ。これはわたしが男だからで、自分の生き方とシンクロする問題でもあるのだが。駿が東京へ旅立つ道を選ばず、恋人を捨て自壊を選択したのはそれこそ「母の存在」ではあるのだけれど、やはりどんどん私から遠ざかる。
戦争・原爆の影がほぼまったく感じられないあたりは反語的な意味で素敵だ。昭和43年産まれという著者が、幼少期をかたればそうなるしかない。ボンカレーカップヌードル。わたしの世代はこれらの出現期をくっきり覚えている。そういう意味で“戦後”という時間・時代・区分がもうないことをわたしは知らされる。