象に関する2つの寓話が怖い

高橋源一郎「ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ」A面−2曲目が「オッベルと象」でポストモダン小説で楽しくかつジーンとくるものあるんだなあと感心したのが昨年春だったか。
盲目で身動きもせずマンションの一室で佇んでいる(けど糞もする)だけの象を所在ないまま愛でているる(糞の片付けもする)オッベル。そんな静かな空間へ向け権力の介在があり、結果として象は喪失し先進社会の軋轢は増大するというまるでどこにも救いのないドラマが、淡々と生気や湿り気の少ない筆致で語られる。
高橋源一郎作品では象は象徴(象印みたいだ)でありつづけることが重要だったが、糞の片付けと糞を生産するための食い物を提供するという形而下的営為(あまりにひどい低位置からの出発だけれど)から、同じモデル同じシェチュエィション同じドラマツルギーで「Ωの聖餐」は描かれ、むなぐそ悪くなる肥溜めの底から遥かなる高さまで、たいそう臭い反吐の力で読者は飛ばされることとなる。いずれにしろ、読者はもう呆れかえっているしかない。