書き下ろし時代小説

文春文庫6月新刊より藤原緋沙子「ふたり静」購入で「やっぱり駄目かよ」と幾度目かの脱力感。どうしてストーリーに近代入れちゃうんだろう。どうして明治大正昭和初期とかに時代を持って行かないんだろう。岡本綺堂の半七なんて、もうつまり父の世代からの聞き書き。それくらいの近さでないと物語の基礎がぐらつく。池波にしろ藤沢にしろ、明治生まれの人々と会話し、仕事ぶりを見聞きし、もう一つ昔の世代を垣間見れた。だから今の作家が昭和初期生まれの老人を観察し、ようやく明治が理解できる。それくらいから時代物ってのをはじめてもいいのではないか。どうか編集者のみなさん、昭和ノスタルジーって流行してるんだから、才能ある若手作家にはそのへんの時代劇をまずは書かせてみたらいいのでは。新たなジャンルが生まれると思うよ。
近世と近代とはもう人間の基本骨格がぜんぜん違う。福沢諭吉の兄が「難しい舅の家に婿入りし、波風一つ立てない」ことが最高の美徳で、自分のやりたい第一のことと考える、それが封建の世だ。規範が違うんだから近代的自我を持つ時代劇の主人公や仇役やその他登場人物がどう動こうが考えようが、ただいるだけで時代の枠をはみ出してしまう。
NHK大河ドラマ田淵久美子の脚本でうけたせいで、近代入った新しい視点でならじゃんじゃん書けそうと思っての「書き下ろし時代小説」ブームではあまりに短絡。どうして水戸黄門がぽしゃったかをよく考えてほしいものです。