文藝春秋5月刊 柚木麻子 終点のあの子

終点のあの子

終点のあの子

日本人はまあふつう“関係性”のなかで役割や位置を作り上げるもので…日本のカラスも電線に並ぶ端のほうでいろいろ関係性を確認しあって(いじめたりつついたり飛びのいたり)しているが。高校生って自意識が無意味に膨らむ季節であり、また社会適応性を否応なく身につけ自己防御にも励まねばならぬ季節で、各々大変でしょうね。
4つの短編、連作になっていて最初からそのつもりで構成したのなら凄いと思う。でも、だったらもう一つ輪を掛ければ連作長編になったのではと少し疑問。視点の変わる長編が元で、新人賞に合わせ切り取ったせいで、こうなっちゃったのかとか。
第一話「フォーゲットミー、ノットブルー」は高一の二学期に友人を裏切り居場所をなくした主人公希代子が卒業前に、裏切った元友人に挨拶され、それはなんだったのかを考えるがよく分からない。第二・三話は加害者被害者と同じクラスのメンバーのの高一夏休み、森ちゃん恭子さんの“ひと夏の体験”マーマレードを思い浮かんだりマリリンモンローを歌いそびれたり、それらはイシューとして整っていた。第四話「オイスターベイビー」では第一話で裏切られた朱里が美大四年になっていて、でもやっぱり第一話と同じでイノセントで同じ失敗ばかりで、まあ最後に彼女が社会性だの関係性だのに気付いてお終い。
第一話で被害者だった朱里が結局は傲慢なままなので、第一話の希代子の葛藤や悲しみが“さもありなん”と改めて腑に落ちてしまい、それは連作としての弱点です。タイトルの「オイスターベイビー」はキャロル=アリスの“セイウチと大工”から。朱里の友人杉ちゃんの実家から届いたカキをたべながら、大工とセイウチとどちらが悪者か対話する。

「そりゃ、大工なんじゃない?あいつは確信犯でしょ。セイウチは反省して泣いてたじゃん」
「あたしはセイウチが許せない」気がつくと、杉ちゃんはビールを飲みながら、キャンバスの前でじっと裸婦像をにらみつけている。その横顔は険しく老けて見えた。一学期に比べて、頬がずいぶんこけていることに、初めて気づく。
「牡蠣の赤ん坊に対して、本当に悪いと思うんだったら、泣いたらだめでしょ。無理してでも、美味い美味いって、食べるべきでしょ。セイウチは涙で罪の意識から逃げたんだよ」
「そ、そんなに?」
笑い飛ばそうとしたが、真剣な目を見て、はっと口をつぐむ。
「反省とか感傷って逃げじゃね?被害者っていう立場に逃げ込んで、楽に生きようとする。そんな人間にだけは絶対なりたくねえ」
そう言うなり、彼女はパレットナイフを握りしめ、裸婦像に白い絵の具を塗りつけていく。

で、このあと二股恋愛破れたり作品出品できなかったりと朱里の立場はぐんぐん悪くなるわけなのだが、この挿話とストーリーとがあまり噛みあってはいないんだなあ、まあいいけどでも一番悪いのは間抜けに喰われちゃったカキの赤ちゃんで、お前らがいま喰ってるそれじゃないのか。
というわけで、人付きあいの応対いろいろ(迷惑・むかつき)編になるしかないでしょ的に少女小説とはこんなものかな。過度な親密性が迷惑花ざかりの修羅場に自然に移行するカタストロフの恐怖はでも、発言小町のレスに負けてなるか─負けそうだけれど。しかし、どう考えても小中学生のころにいま少し「人付き合いの仕方」を授業で教えるべきです、淡々としたお付きあいがいちばんだとか、「君子の交わりは水のごとし」がただし生き方だとかソリチュードの優雅さとかを。まあ、その時の副読本に「クオレ」や「君たちはどう生きるか」ではなく、こちらの小説のほうが─いやいっそ中島らもの「明るい悩み相談」がいいかもしれないが。81年生まれの著者だそうで、20世紀末の高校生活がベースなのだろう。立教大卒と記されていて、じゃあモデルは三鷹台の立教女学院かなと思ったが、江ノ島行き小田急だしね。十代の少女たちの風俗所作が小説から垣間見れたかは、少しわかりにくかった。
赤いリボンと白い制服、淡い国から来たヴィヴィアンガールズたちのような水彩のカバー画、どこかで見たなと思っていたら「学園のパーシモン」の作者だった。うん、興味あります。

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