角川文庫3月刊 冨田恭彦 科学哲学者柏木達彦の哲学革命講義

科学哲学者 柏木達彦の哲学革命講義 (角川ソフィア文庫)

科学哲学者 柏木達彦の哲学革命講義 (角川ソフィア文庫)

このままだと次回の柏木達彦シリーズは、紫苑ちゃんとベッドで愛の営みの後に「アラベールとエロイーズ」みたいにディベートしているのかな、ワハハ。大学の先生ってのはでもたしかに学生の未熟な議論質問に対してでも懇切丁寧に対応してくれるんだけど。
なんというのか、もうひとつ「…只野教授」をライバル視し頑張ってみても読み物としてよろしいのではないかと思うのですが。
でも今回の結論、「哲学は死んだ」ということなんですかねえ。哲学が死んで民主主義になるということは現代日本とか欧州とか、最先端なんでしょうかね。でもそういう地域ほど哲学者が闊歩したり騒音に苦情言いまくったりでなんだかなあ…。前回「プラトン講義」でも柏木教授は過度の厳密さを否定していて、でもそれが哲学の死とまではいってなかったようだが。


「まず、ヨーロッパには長い間、自分のことは自分が一番よく知っているという思いが、心に関する考え方の中心にありました。自分の心の在り方は自分自身が直接意識しており、だからそれは、自分が一番知っている、というわけです。これは無意識の世界が話題になるに及んで、弱められはするんですけど、それでもこの見解は、いまでも日常的には優勢です。」
「ええ、そうですね」
「だから、言語について考察する場合でも、そうした心の在りようを表す言葉は、何らの媒介もなく、直接、心の在りようと結びついていると考えられがちでした。」
「ところが、ヴィトゲンシュタインは、心の在り方を直接表現し記述するような言葉の場合でも、私たちの外的振る舞いが、どのような場合にその言葉を使用していいのかの基準として、実は機能してきたというわけですね。」
  10 デカルトの二元論 より

「…わたし達は自分自身に対して「賢い」という言葉を使うことができますけど、そもそもそれが適用できるような心的体験を、私たちは自分自身の内に持っているでしょうか?」
「「え、ああ。」少し間があって、紫苑が言葉を続ける。「そうですね。仮に自分で自分のことを賢いと思うとしても、その言葉でもって表現できるような心の働きとか性質とかいったものを、私たちは自分自身の心の中で認知しているようには見えませんね。
「そうですね、どうもそうみたいです。
じゃあ、どういう場合に、自分のことを賢いと思うんでしょう。」
「うーん、…なにかがうまくできたみたいな、例えばそんな時ですかね。」
「とすると?」
「あ、そうすると、もしかしたら心について述べているように見える言葉の多くが、デカルトが考えるような私的な心の在りようを述べているんじゃなくて、私たちの公共的な振舞いとか外的行動とかの在り方を述べている、ということかもしれないわけですね?」
「そう。そういうことなんです。ライルは、そのような方向で心に関する従来のデカルト的な扱いを考え直させようとしました。…」
 12 なぜカテゴリー・ミステイクなのか?より

「絶対的、特権的な知識というものはない」「収斂よりも増殖へ」という結論でよろしいのだろうか。もちろんそれを言い切るため膨大な知的エネルギー(頑張ったお勉強の集積)が、浪費ではなく何というのか試行錯誤され演繹的な帰結でそういうしかなかったのか、そう言い切るしかないという自信を得たのか。どちらにしろ哲学者の矜持は民主主義の愚かさ(鳩山とか…)を哲学の真理として啓蒙するしかないわけなんですがね。
今日、ジュンク堂で久々ナカニシヤ出版版の「柏木達彦シリーズ」みてきて、ああやっぱり紫苑ちゃんは文庫改訂版の方だったと理解しました。となると第一冊目の「…多忙な夏」のほうも改訂版で読んでさらっておかないと二人がこの先一線を越えたときに臍を噛むかもしれないね。