中公文庫09年11月刊 町田康 東京飄然

東京飄然 (中公文庫)

東京飄然 (中公文庫)

上野駅に着いて)…地上にあがると上野はなんだかぶちまけたような街であった。
人間はいろんなことを考えている。
チワワをみて可愛いなあ、と思った次の瞬間、ちくわ天を買おうかなあ、と考えた次の瞬間、今月は会社が決算だなあ、と思ったりしている。そんな人間の思弁や欲望、感情などをすべてぶちまけたような街なのである。
しかもそれはひとりの人間の考えをぶちまけたのでなく、上野を訪れる、何十万、何百万という人の考えをなにも考えずにぶちまけたような街で、いろんなものがてんでに勝手に随意にばらばらにぶちまかって押し合いへし合いして無茶苦茶になっていた。その無茶苦茶のなかを何十万という人間がてんでに勝手に随意にばらばらに歩いているので、無茶苦茶が無茶苦茶になって、もう無茶苦茶な状態になっていた。
こんなときこの無茶苦茶をなんとかしようなどと考えてはならない。なぜならそんなことは不可能だからで、こんなときこそ超然としておればよいのである。
 225ページ 上野の街

とこのあと著者は無茶苦茶で超然なままに上野の街で「夜のサルビア」という怖ろしいまでの愚作の詩を即興で作リはじめたり大量のフライドポテトに悪戦苦闘したり、作家の飄然はかなり面白い。
─のだけれど、絵画やロックコンサートでのトンデモ解釈─というかアナクロでピンボケで間抜け爺的な鑑賞を繰り返すあたりだとか、立ち食い蕎麦屋の店名だの江ノ島に夕方登ってしまった人が行き暮れぬよう助言をしようとかいう堂々巡りなどもいまひとつ芸になり損ねているなあ。
もっともっとあこぎで意地悪、ねちねちいらいらと読者を苛立たせる小説作法を著者は十分身につけているので、それらもサービス精神からの記述なのでしょうが、そのへんエッセイと創作という場所では、読むほうの本気度みたいな部分が違うんでしょうかねと、半分は著者を弁護しておく。こういう軽いエッセイなんぞであまり攻撃性や威嚇感を発揮したりされたりしても読者は困惑するだけかな。
小説だとこちらの困惑ものともせずに身体性に繋がる強い怒りや大騒ぎとかなんぞでシェチュエイションやら読者をむちゃくちゃにして芸になるあたりが嬉しかったりするんですよね。