ハヤカワ演劇文庫08年11月刊 渡辺えり子2 ゲゲゲのげ/瞼の女

オストラシズムか、陶片追放。それは子供のいじめとは違う高度な政治的活動だったろうが、でも確かに破片たちがうずたかく積まれそれが毀れ散らばりまた高くたび発する乾いた陶器の音は残酷で陰惨で救いがなければないほど、ある種の不穏な快感を聞かせてくれるものかもしれないが。

今はない、古代ギリシャの器の割れる音がする。─今はない、しかしかつての人々が、ある種の痛みとともに聞いたであろう、あの音である。確かに聞いたはずなのに今はない、なんということだ、今あると思っているものが瞬時に過ぎてゆくとは。それならば頭をこらして聞くしかない。すると今はないあの音は、またたくまに聞こえてくるのである。─(以下略)
 ゲゲゲのげ、冒頭のト書き

ひとり何役をこなさねばならぬ役者たちの段取りや、豚やら河童やらへの変身だとか、ヘタな腹話術とか、そうとう過激な舞台構成・演出はさて作者の意図どおりの結果を生んだのかな。3○○の舞台を教育テレビでしか観ていない私ですので下手な冷笑はなしとしないいとね。でもビワの木のエピソードなど「光る時間」でもそうだった戦中体験とかを、こういう形でずぼらに放り出されても少し苦しい。
マキオ少年が死に別れた姉一葉への痛みを引きずっているかぎり、うとましい彼へのいじめは続く。いじめから逃れるには鬼太郎たちバケモノの側で汚れた存在として腐敗の中で生存することを選択するしかない。いじめの世界と鬼太郎の世界とが“同一”の汚濁の世と知るための手引書。救いのなさは一級品です…って、これほめことばなのか。