文春文庫08年3月刊 江國香織 赤い長靴

赤い長靴 (文春文庫)

赤い長靴 (文春文庫)

きつい読書体験、それにしても凄い筆力です。日常の夫婦の所作や会話、何気ない人生の機微なのにこれほどスリリングで読み進むのが怖いったらありゃしない。それでもこの夫妻、刃傷沙汰とか離婚調停とか不倫とか、そういう破綻があるわけじゃない。いっそそんなカタストロフのほうが救いになるよと、静かな戦慄の続く物語を怯えて読みました。
なんだか「嵐が丘」とかフローベールとか、世界文学全集に載せても遜色ないようなスリリングな物語ではないか。愛して恋して結婚して、お互いを今でも必要としていて、でもそのくせパートナーがいない時が一番幸せという“当たり前”がこんなにも怖くておののくのです。

…前略
「わたし、習慣って好きよ」
日和子は言い、逍三はうなずく。逍三がなぜ頷くのか分からず、日和子は笑い出してしまう。
「どうして笑ってるんだ」
二人のいるマンションの電気はすべて蛍光灯なのだが、食卓の上にだけ電球のランプがぶらさがっている。そのランプのせいで、テーブルの上とその周辺だけが暖かな色の光に包まれることを、日和子はつねづね滑稽だと思っていた。
「逍ちゃんはどうしてうなずいたの?」
まただ、と思いながら日和子は訊き返す。幸福と呼びたい気持ちでくすくす笑いをしている。
 …中略…
日和子は自分が何を話したかったのかにようやく気付く。
「きょう、あなたは吉野のおばあさんに会わなかったのよ」
慎重に、日和子はそれを口にする。
それはそこにあったのに。あしたでは、物事はすでにぜんぜん違うものになってしまうのに。
「見るといいことでもあるのか?」
真面目な顔で逍三は訊いた。
「ないわ」
日和子は自信を持って、断言する。幸福と呼びたいような愉快さは、はっきりした諦念とあいまって、日和子を安心させ、微笑ませる。
…後略  マミーカーより

“幸福”という文字自体が企みの中にあるわけで読み進めば進むほど苦い笑みと悔恨とが広がってゆくエピソード、特別に怖い場面をピックアップしたわけではない。納められた14の短編のいずこにもそんなシーン、読むうちにいらだったり鼓動が早くなったり口中が苦くなったり息苦しくなったりが含有されている。
きついとか怖いとか、レッテルを貼りすぎた。これは恋愛小説のある種典型であり、まあそちら関連では極北だろう。つまり恋愛成就後に来るべきおののきや不穏や不愉快を内包させられぬ恋愛小説を読む気になれないということか。