創元推理文庫08年2月刊 米澤穂信 犬はどこだ

犬はどこだ (創元推理文庫)

犬はどこだ (創元推理文庫)

犬の探偵業を開業したのに、主人公が犬の探偵をぜんぜんしないとはどういうことだ。でも人間を襲う野犬を処置したのだから探偵としては合格なのか。
前回感想文を書いた「クレイジーへヴン」もそうだったけれど、殺人を肯定している2冊ななわけそれって時代の流れなのでしょうか。あちらはクライムノベルだろうが、こちらは推理小説、それでこんなシェチュエィションってありなのかな。
松本清張だの社会派の時代、弱者が切羽詰って追いつめてくるものを殺し、でもその犯罪がいずれ破綻するという筋書きがあって、それは高度成長以降も公害や学生運動オイルショックバブル崩壊の低成長期にあってもまあ守られてきたわけ。だからわたしのような50年間生きてきた人にとってこういう結末はもちろん相当ショックである。
この作品“悪い奴ほどよく眠る”というような犯罪ドラマではなく“窮鼠猫を噛む”のパターンで加害者に同情はするけれど、それにしてももうすこしひねりというか小説的決着があってもよかったのではないか。
ああ、そういえば同じ作者の「…トロピカルパフェ…」も、弱者による綿密な復讐譚ではあった。でもあちらの場合小山内さんの巧緻を見破った小鳩くんが彼女を諌めるという儒教的なエンディングだし「ロング・グッドバイ」のマーロウの苦いため息もあった。でもこちらではそれら本来なら魅惑的なドラマを無視し、社会的な風潮を含めた形での「復讐するは我にあり」を肯定しつつ主人公をニュートラルな位置にすばやく押し戻す手管に驚くほどで、やっぱりすこしアモラルな読書体験のように思える。もちろん社会的な要請がこの犯罪ドラマを流通させたのだということは分かるんだけどね。
ハンペーというワトソン役とも違うか、部下か。彼のスタンスも最後に破綻しているようだ。本当の部下として扱うほうがよかったのでは。モース警部シリーズ中で、警部と部下のパスコーとが、同じ家を訪問しているはずなのに実は隣だか裏だかの家の話をしていたという、ちょっと呆れたトリックがあったけど、それに近いようですこし楽しくイライラした。巧みに使えば物語がもっと重層的になれたはず。