古処誠二 メフェナーボウンのつどう道

メフェナーボウンのつどう道

メフェナーボウンのつどう道

「メフェナーボウン」ってどういう意味だっけか。書中で見たおぼえがあったが忘れちゃった─そんな読者が記す感想文です。
従軍看護婦に関する知識がほとんどないし従軍看護婦小説も読んだことない、わたしやその他の一般常識人だったりするから、ある意味期待をして読み始めた。でもこれが啓蒙書となっているかといえば相当物足りないし、かといって“ある異常な体験”の渦中をさまよった女性の遍歴としての小説としても読むというほどのものでもなかったような。「感動どころが違うでしょ」っていうか、それは著者への憤りのせいかと思う。
ビルマの首都ラングーンからの撤退戦が始まり、兵站病院に勤務する若くてしっかり者の日赤看護婦(主人公)が、困難が予想される陸路撤退の最後尾を任される─というのが最初の設定なので、小説の読者としては彼女の視点から、撤退戦の諸々や敗軍とともにある看護婦たちの苦難などを知らされるのだろうと読書前に当たりをつけたわけだが、わりと早くに予想は外れる。撤退の途中で所属部隊から部落に“捨てられ”た元患者を偶然見つけた若手看護婦が、深夜渡河寸前の救護班から無断で離脱し助けに戻る。主人公と衛生下士官とが婦長の命令で彼女を救助に向かうことで、ストーリーは早々に集団での逃亡譚とはちがう性質となる。
ラングーンの野戦病院で主人公を慕っていたという設定の「ビルカン」さん“マイチャン”のトートツな登場シーンにはご都合主義なんて言葉を振るのも気恥ずかしい。朝鮮人従軍慰安婦、駐在員の家族など所帯が増えたり減ったり、マイチャンの実家で戦時をわすれくつろいだりといった、なんだか不思議な道中が綴られていく、でいいのかな。


戸惑いながらも言われたとおりにしたマイチャンが流れる人々に遮られたとたん、軍曹は口調を変えた。
「思い上がるなよ、アマ」
豹変ではあるのだろう。前中軍曹はこのとき確かに国軍の下士官の顔をしていた。
「いいか、今お前は女学校にいるのでも救護班にいるのでもない。転進の編制にあるのだ」
アマ呼ばわりされ、お前呼ばわりされたところで、そんなことは分かっているとの思いしか抱けなかった。いまさら編制を口にする前中軍曹の方がおかしいのであり、静子は睨み返した。
「それがどうしたのですか」
「そうか、すべて承知しているのか」
「当たり前ではありませんか」
「で、その体たらくか」
詫びも純粋なら、怒りも純粋だった。前中軍曹はすでに静子を侮蔑していた。

    モパリン 188ページより

わお、ここらへんから戦場調教凌辱SM小説に早変わりかよと一瞬どよめいたわたしは、わりとバカね。結果的にはその後も淡々とした旅の中での、文化人類的な比較宗教論めいたビルマ人との交流、そしてマイチャンとの別れと旅の終りとなりなんだか小説中に戦争をあまり感ずることなく小説は終わる。ってわけで、この小説って“変”です。
これはほぼ聞き書き、ノンフィクションノベルでしょう。現在80代半ば以上の従軍看護婦経験者の体験は、きちんと聞き置いておかないといけないし、その体験を大衆小説の形にして流通さすことは大切。でも、だったらそういった仕掛けや見立ては必要だよ、特に長編従軍看護婦小説の嚆矢となるのなら。─帚木蓬生の「逃亡」。あちら戦犯憲兵小説としては、ラストのあっけなさとかいくらか不満も残ったけれど、憲兵時代に愛人がいたり、部隊の名誉のために憲兵試験を受けにゆくところとか、そういう日常ディティールが悪くなかった。
というわけで、古処誠二厚手の600枚。構成というかモンタージュの技法に未熟を感じたし、何よりもうすこし基礎知識を小説中で与えてほしかった。