菅浩江 そばかすのフィギュア  07年9月購入

そばかすのフィギュア (ハヤカワ文庫 JA ス 1-4)

そばかすのフィギュア (ハヤカワ文庫 JA ス 1-4)

「お夏 清十郎」がとてもよかった。「時を駆ける身障者」…だなんてハハ、着眼点が斬新、その発想のとてつもなさがわたしに迫るぜ。でもまあ考えてみれば「時を駆ける」という物理学の常識に反する作業、ひどく負荷がかかり肉体が傷つき荒れるというのはそのとおりだろうね。一度の遡行に数年かかるというのも、けっこう説得力がある。
そのうえだねえ、そんな荒行がたかだか過去の<踊り>の型を再現するためだなんて、瑣末で非生産的な作業なので疲労困憊の主人公に同情しようもなく、そのへん情けなくも痛々しい。高松塚の壁画保存のてんやわんや(あのせいで河合隼雄先生の寿命もすこし縮まったのだろう)だって、あんなものたかだか大昔の絵でしかない─保存は大切かもしれぬがメディアの狼狽ぶりはすこし不気味だった。それこそ厩火事的な視点がほしかったよね。
なんというのか「お夏 清十郎」の時代では、こんな無駄で下らない目的のために過去に遡行させられる大勢の奈月が身体を痛め息も絶え絶えでいるのだろうなあ。とはいえ、身障者となることも顧みず、どうしても遡行したいというほどの情熱が、この小説からではわからないなあ。大学史学科研究室で全身麻痺のホーキング博士みたいな、講義の内容は猫猫先生みたいな、アカデミックな題材のほうがいいのかなあと。
つまりアーティスト・表現者ってのは、やっぱり「己をもって嚆矢となす」という部分があるわけですよね。最良を知ることと、最良を演じたいと願う心とは、まあ合致はしないような気がするぜって記すわたしは、こんなすてきな問いをもらってありがとうという、まあ答礼みたいなものですのでまあ気にせんといてね。
他の短編、まあ多くのSFの欠点である<発想>に寄りかかりすぎみたいに読めた。やっぱり大衆小説の場合だと地に足のついた部分がウソを補完・補強してくれるみたいでそのへん、概念さんっぽくてちょっと物足りない。
「カーマイン・レッド」みたいな疎外感を、著者は味わったというかもしれぬが、そんなものあなた、本読み人口とほぼ同数と同様の経験をしただけのことでしょ。