楽園の知恵 あるいはヒステリーの歴史 牧野修

まったくの未知の作家。ドラッグ・パンク・ノヴェルやゴシックSF大作など、もう幾冊もハヤカワ文庫から出ているという。不謹慎なひとことですが、元ジャイアンツのコーチ(優勝の際に胴上げの最中、落っことされた)や、漫談の大家とごっちゃになりかけな筆名で、ほんの少し齟齬というか、読書の妨げになりかけもした。
早川のSFって太陽風交点事件以降は常連作家、大御所と決別し、もっぱら新人発掘─新たな軍団の創設みたいな展開となり、わたしのようなオールドタイマーと一線を画してしまった。事件の顛末など堀晃のホームページ中に裁判記録を含めすべて公開されている。早川敗訴で終わったわけですね。

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まあその老舗だし「SFマガジン」で若手の面倒見てきたという自負というのか驕慢さが悪い意味で吹き出した事件だったのだろう─わたしも早川書房って存在、好きになれなかった。
もちろんその後、神林長平や藤崎慎吾、その他大勢の筆頭として田中啓文など、わたしがハヤカワ文庫で知ったニューウェイブ作家も数多いのだけれどね。

だから「楽園の知恵」について

よくもまあここまで奇怪痛快奇々怪々な話をつむげるものであると驚嘆するほかない。
ここにある15本の短編群は人間が想起し得る奇想のある種の到達点であり、極北なのではないだろうか?
 「楽園の知恵」文庫解説「◎脳捻転の帝王─奇想と慎みのあんびばれんつ」平山夢明より

いやいや、食人ディスポーザーΩの発想で充分夢ちゃん、極北たりえてますよ…っていうか「楽園の知恵」の諸編ってでもほとんど、初出のアイディアってことではないと思うよ。サイエンスでもスペキュレーションでも妄想でもいいのだけれど、その奇想を物語に定着さす膂力まで考慮するなら筒井康隆以下、既出の大勢の作家に読みやすさや作品と読者との一体感などで届いていないと思う。いくつかの作品をラフに語りたい。
「いかにして夢を見るか」「召されし街」「ドギィダディ」など、視覚で捉えたほうが美しくインパクトを感じさすのではないか。つまり映像作品の原作としてくらいの作品の質にしかみえない。
「いつか、僕は」で、主人公を支配する闇の声という存在。ブルースブラザーズかアリとキリギリスみたいに具体性を持たせちゃった御手洗くんと伊佐山くんが殺し合い、地図を完成さすなんてやっぱり蛇足でしかない。「イビサ」のような自滅したことさえ気付かぬほどの闇の声の誘惑というドラマが見えないことは失点だろう。
バロック あるいはシアワセの国」「演歌の黙示録」の両者、偽史の構築という難易度の高い技の組み合わせは充分成功しているが、第一動因というべき騙し絵の構造があっけないので、退屈さを努力で克服させつつ読み進めないといけない。
インキュバス言語」の“ご苦労さん”度は相当高く大笑いもしたけれど、でもこの語彙・話法って素人投稿写真誌用語なんでしょ。
スワッピング雑誌特有の用語を“新しい日本語”として紹介したのは井上ひさしで、だからこの短編も用語に注目した著者の慧眼には拍手を贈るけど、やっぱり必要は発明の母で、たいそうお下品に文体を作り上げてきた多くの無名氏にその称賛を捧げたい気持ちのほうが強いですね。
「中華風の屍体」はすてきな作品です。それでもやっぱり読みにくさというか、入りにくさ度の強さは消えず、感情移入をなかなか許されぬ“恋の空しさ”みたいな徒労感を読書中に感じ続けた。
SFというジャンルで括られることを、作者・作品はどこまで意識しているのか、読了後もわたしには分からないのだけれど、エンタテインメントというまた違う意味での毒を盛る技量によって、作品はもっと素敵に変幻自在になれたのではないかと、まあいうべきことではないのかもしれないけれどそんな気がする。