文藝春秋の新刊 2002・11 「ポルチーニ」©大高郁子

ポルチーニは置いてないが、エリンギはあるスーパーマーケットについて描かれた中篇より。巨大メガストア(略称ジャスコ新潟東店)で清掃の仕事しているわたしとしては、普通ですてきなスーパーマーケットが近所にほしいな。

近所にスーパーマーケットが1軒ある。壁に大きな、オレンジの太陽が描かれてある。名前を、スーパーサニーサイド、という。
かあさんと僕はここが好きで、ほぼ毎日かよっている。好きな理由はいろいろある。まず、家に近いこと。それから、ぶらぶらできるくらい、広いこと。かあさんによるとサニーサイドはちょうどいいサイズ、らしい。たとえばきのこだったらボルチーニはないけれどエリンギはある。ほどよくえらぶ楽しみが残されているというのは、大事なことよ、という。
  栗田有起「お縫い子テルミー」収録作品『ABARE・DAICO』より

お縫い子テルミー (集英社文庫)

お縫い子テルミー (集英社文庫)

少年少女が主人公の小説を読み込みかけても、ことごとく感情移入に失敗している中高年のわたしですが、そんなひねた最近のわたしも「ABARE・DAICO」には感心した。
一人称で書かれた作品の、小学5年生的な口語文体(なんだそれ?)が、はまっているというか違和感を持つことなくストーリーの波を受け入れた。
主人公の小松誠二クンが下着泥棒の嫌疑をかけられ「むりやり、口をこじ開けられ、汚くてくさっていて重いものを、バケツで流し込まれてしまった。入りきらなくて腹からあふれた…」と、暗くて重い現実のアレゴリーが語られていて、たしかにまあ、こういう文学的表現にはならないかもしれないが、小学5年だったわたし自身も、表しがたいどろどろの心情をけっこう持っていたこともある。バカだった(小学生だもの)から言葉にはできなかったし、論理的に考える術も持たなかった。
誠二クンの吐露した文学っぽい呪詛は、だからわたしには「あの寂しく荒々しいものを語るならこんなものになるんだろうな」とひどく肯定的に読めた。