古川日出男 サウンドトラック 上・下 集英社文庫

サウンドトラック 上 (集英社文庫)

なかなかレビューを書けなかった。理由を含めいまだうまく言葉にできない。購入したのは昨年9月。時々物語を無視してパセティックな絶叫やポエジーの暴発が挟まり、そんな時すこし読むのに戸惑いを感じはしたが、まあ普通の読後感、スピード感もよかったし。
でもそれなのに「読んだ、面白かった、次作がたのしみ」とだけ記すわけにはいかず、戸惑いのまま書架に置かれたんだな。
読了後わりと近い時期にNoism06による舞台を見た。そのせいもあったと思う。かつて「KYOKO」を読んで感動し、それなのに著者自身が監督をした映画を観た後、ひどく落胆したのと同じ感情かな。
そうなんだ、ダンスっていうのはやっぱりダンスでしかない。「ソソラソラソラ(祖空空空と誤変換…すげえ)ウサギのダンス」だ。タラッタラッタラッタ…らったらったらったら、芸術としては後衛に位置するという現実。
もちろん、アフリカの暗黒大陸においてはタムタムの音やらと一緒の共通言語として呪術を具体化さす象徴として機能していたのさ。でも、むりだ。
結局そのダンスの呪術性を際立たそうとして、エイゼンシュタイン無声映画を持ってこなくてはいけないじゃないですか。伝統芸能同士の連携じゃあなた、地下のモグラ族や中央線沿線の中流幻想などと戦うのが関の山でしょ。
ダンスをこばかにしているわけじゃないんですよ。こちらに期待が大きなぶんペシャンとくる落ち込みも大きいんじゃないかな─あれ、それやNoism06が悪いってことになるか、そういうオチじゃないんだがな。
つまりはまああれだ、魅力的な小説だし、ゲームエィジの吉増剛造みたいな詩心に幾度か読む手を止めうねりに酔う快感不快感を味わいもしたけっこうすてきな読書体験ではあったけれど、やっぱり踊りで他人の心を支配するっていう設定にぶつかるたびに、首を傾げましたよね。

狙撃手がいて、指を引き金にかけている。
現れようとしている者を、狙撃手は待つ。
全容が見え始める。まず、回転がある。旋回する力がスモークを散らしている。ただ回るのではない、走るのではない、腕が全身を独楽に変えている。出現し始めたのは、少女だ。十代後半のガールの、まずは腕だ。だが、それはなんたる腕か。上腕二頭筋がネコ科大型獣の肩にも似て、太く、靭かに柔軟にうねる。腕は外側から内側に、外側から内側に、全身を回した。フック。その連続。
異様なダンス。
そして神憑ったかのような、ぎりぎりのフットワーク。
それが時間をずらしている。
少女の半身がついで出現する。狙撃手は見逃さない。
…(略)…
千分の一ミリ単位で銃身を上下動させて、現れた顔にただちに照準した。
顔。
まるで「お姫様」然とした顔がそこにあり、瞬間、認識した光景に狙撃手は唖然とさせられる。
見返していたからだった、少女が。
その顔が。こちらを見て、ニーッと笑った。
スコープを覗き返すように。…(後略)
  サウンドトラック 下 20から抜粋

あれま、ちょっと長くなりましたね。まあ、ともかく同世代思春期の少女たちの心を奪い、情緒を不安定にさすくらいのヒツジコのダンスの威力・魔力というくらいなら信じられるし楽しいけれど、あまりにおおげさなオカルトとなるとちょっと困るなあって、それをいうなら全体がオカルトなんだけどね。おかしいな、もっとこちらが単純に物語の流れに飲み込まれたままであったならすてきな読書体験だったのにと書き写しつつ、まだ釈然としない。

そうね、「傾斜人」って存在。妖怪とか人間モグラ(鬼太郎たちね)が東京の地中にうごめいていて、彼らをレニとトウタが“カラスを食った”という理由で殺戮するというあたりが、叙事詩としてちょっと変かなって…変でしょ。もちろん、2人の殺戮のせいで妖怪たちが丸の内線を打ち破り荻窪周辺に飛び出すのだから触媒として彼らは作用したという意味は理解するんだけれどさ、なんだか同胞を殺していいんだかなんて倫理的な動揺と不安を覚えたってことです。「KYOKO」やNoism06のつまらなさについては、またべつにきちんと記したいなんてすこしは思ってます。