集英社文庫 2006年6月刊 栗田有紀 お縫い子テルミー

お縫い子テルミー (集英社文庫)

お縫い子テルミー (集英社文庫)

「チャボと…」読了後にちょっとじぶんに熱冷ましが必要になり、押し入れの段ボールをひっくり返して久しぶりに読み返しました「ABARE・DAIKO」、読み返してみて、やっぱりこちらジュブナイルとして傑作であること間違いはない、ただしこの物語中のハレンチ犯罪事件が実は全然解決したわけではないので、小松少年は新学期に学校で揶揄されるだろう、そのへん作者は巧みに修飾というか落とし前つけてあげればよかったのでは…まあ小松くんなら負けないだろうけど。
主人公の小松くんはちびで花粉症で貧しい母子家庭の小5少年。貧乏を苦にはしないが困った状況と分かっている。コンプレックスは小松くんの心中で渦巻いてはいても、どちらかといえばそれらを糧に前向きに生きれるタイプで、そのへん「次郎物語」とか「クオレ」とか古典的なジュブナイルと同じタイプでまあ物語の基本構造というやつは変わんないということか。小松くんの相棒であるオッチン=水尾くんは、まあ憧れの少年像として描かれていて“世界の謎”だとかについて(死についても)まじめに考え、小松くんに問うてくる。

彼はこうも言うのだ。
なあ、コマ、世界ってなんだろう。地球のことかな。宇宙のことかな。どこにあるんだろう。どこかにあるもんなんだろうか。どう思う?
ぼくはちょっと考えるふりをして、こう答えた。それって、ひとによって、感じ方はちがうんじゃねーの、うん、そうなんじゃねーの。ぜんぜんわからなかったから、てきとうにそれっぽく言っといた。

ま、いろいろ成長期の小松くんだが夏休み前の彼の最大の悩みは、体育着を袋ごとなくしちゃったこと。約6千円という金額が彼と母の家庭にとっては、無視できない金額ということは分かっていて、それを工面できないか考えて近所のスーパーにむかう。

(スーパーに着いた小松くんの独白)…
みなさん、こんにちは。
心のなかであいさつする。声に出していうのがいいのはわかっている。それがあいさつというものだ。でも正直に言おう。ぼくははずかしい。あいさつするのはいいことだ。でもできない。ぼくには、できない。
なんとかすべきなのだろ。水尾和良と対等になりたいのだから、これくらいのことではずかしがっていてはだめだ。

スーパーの掲示板に書いた“留守番しますのアルバイト掲示板”にとても恐ろしいおばばが連絡を取ってくる。面接も大変だったが、翌朝最初の留守番にむかうだけでとても苦しい。

時計の前でカウントダウンし、九時半きっかりに家を出た。緊張していた。そのせいなのか、なんどもゲップが出た。
太陽はまぶしいけれど、そんなに暑くない。それなのにいつもより倍は汗をかいている。
「はふー。げぷっ。はふー。げぷっ。」
体の中に動物がいるみたいだ。

7年前にわたしは(多分)人生最後の就職面接を受け、清掃会社のパートの職を得た。まあ10歳の少年も50歳過ぎの初老も“はふー、げぷっ”はおんなじはずでその息苦しさが甦る。アルバイトは順調に過ぎるのだが、ある日最悪の結末がくる。小松くんはある種のハレンチ犯罪者に間違えられ(意図的に)通報される。

終わったな。ぼくにはもう一生、はしゃぐ権利はない。笑うにしても、ばれないように、こっそり笑わなければならない。わるものは、楽しそうにしたら、いけないのだ。
むりやり、口をこじ開けられ、汚くてくさっていて重いものを、バケツで流しこまれてしまった。入りきらなくて、腹からあふれた。体のなかに、べっとりとはりついた。

重くどんより、泣きたい気持で母とともにおばさんの家(母の田舎?)にむかう小松くん、母も責任を感じているのか少年を責めることなく、そしてそれも彼を苦しめる。田舎でのある夜、母と叔母とのやるせない会話を聞いた少年はふらふら家を這い出し、なんだか田舎の精霊みたいなものに抱きしめられる幻覚をみて、たぶんある種の死に至るべき危機を乗り越える。都会に帰ってきた小松くんは親友の水尾くんからアルバイト体験を「まじですげーよ」と称賛され、ついでに彼の恥ずかしい秘密をうちあけられる高揚の結末。
少年はわたしだ、わたしに水尾くんはいなかったし少年のように難関を抜け出せなかったし少年みたいに自分を客観的にみれなかったし、少年よりもよっぽど早い場所で白旗あげたし、すぐ責任転嫁しちゃったし。でも、やっぱり小松くんはわたしだ、地に足付けて歯を食いしばって人は生きてゆくべきだという真面目で素敵な勇気をくれる一冊でした。