文藝春秋9月刊 ウィリアム・ソウルゼンバーグ 野中香方子=訳 捕食者なき世界

捕食者なき世界

捕食者なき世界

著者の米人は京大霊長類研のサル学なにかにはあまり興味がないのか、まあアメリカだけでいっぱい紹介しなきゃいけない学者がいたのでしょうし。それはそれとしてまだ生態学は学問以前の段階みたいというのが、読後の本音か。ヒトデのいる入江・いない入江でもちろん生物多様性は違うでしょうし、数ヶ月とかのスパンで結果は出る、もちろん再現可能だし科学的なデータでしょう。
とはいえその後その入江は、他の生物の棲めぬ不毛の地にとして続いてゆく─ということはないはずでスパンの長短で環境のばらつきがでるだけの話なのだろう。とはいえ動植物相が貧弱になっているのは世界中でのことだし憂慮すべきこと。

2010年9月26日 新潟日報朝刊「窓(本当は旧字)」(読者投稿)欄掲載
何処へ行った懐かしの鳥や虫 南魚沼市 青木輝夫(72)無職

子どもの頃の夏休みには、当たり前に見たし接した鳥・昆虫類・川魚などだが「消えてしまったのが何と多いことか」と思う。
酔いに外に度得ると村の杉のてっぺんで鳴いていたフクロウ、あぜに巣作りしたヒバリ、、稲を寄せて卵を産んだクイナなど完全に消えた。ほかにもカッコウホトトギスオオヨシキリカワセミキジバト、ミソサザエナなどまれに出合うばかりである。
区画整理で用排水溝がU字溝に変わり、餌のカワニナが姿を消し、乱舞したホタルも飛ばない。夜、キュウリやナス畑ではスズムシ、マツムシ、カネタタキ、クツワムシ、コオロギが合唱したものだ。コオロギだけは増えて野菜の敵である。
シオカラトンボ、サムライトンボは一体どこに。
オニヤンマ、アカトンボ、キリギリスも減った。魚野川のカジカも数少なく、ハチウオに刺されて泣いた昔が懐かしい。
あれほど田の水口に集まっていたメダカ、カヨナギ(方言)川エビも、姿を消して久しい。湿田だったころタニシを拾い、カラスガイを掘って焼いて食べた。
貝が消えてそれに卵を産み付けるタナゴも見られない。学校からノルマを課せられたイナゴ取りも思い出だ。生態系がすっかり狂ってしまった。

それは大型捕食者不在のせいでなく、開発のせい、実際わたしも少年時代とは違う生物相だと理解している。でもまあ今後ニッポンは人口減・就労者減となり限界集落の撤収も進むだろうから、主のいなくなった地にひっそり残っていた昆虫他が徐々に息を吹き返すと思う。青木投稿者にしても「じゃあオオカミやツキノワグマを魚沼一帯に放そうぜ」とはいわないだろうし、それらに関して長い目で見るしかないと思う。
生態学とは別の思い、「Iターン」という小説を先月読んでの感想文で「暴力団に付け込まれ破滅→現代社会でのワンオブ最悪のカタストロフ」と記した。DQN客にいちゃもん付けられたり、ヤンキーから恐喝されかけたりの経験はあるわたしですが、さいわい本物の災厄に遭遇したことはない。でも新聞などで暴力団オレオレ詐欺その他の悪辣な犯罪、悲惨な被害者などを知ると2ちゃんのレスみたいに「隔離しろ」だの「社会に戻すな」とか歯ぎしりしながら思っちゃいます。
「捕食者なき世界」でいう大型捕食者(キーストーン種)を人間社会に敷衍すると、暴力団員とかヤクザ者とか犯罪嗜好者─名前など捕まった方には同じでしょうか、ある程度ばらまいておくことで健全な市民生活が緊張感を持って維持されるというのはどうだろうって…アハハ。
実は暴力団などは大型捕食者ではなく、大型捕食者が滅ぼされぬるぬる出てきたヘラジカやコヨーテやヒヒなのですね。大型捕食者はリヴァイアサンというか国家権力の軛ということですね。でもって民主主義がそういう権力を駆逐したことでビヒーモス状態に適応した暴力団などが闊歩し始めたとかね。
いや、そこまで言うと国家社会主義とか警察国家とかによる“恐怖によるコントロール”(本書にそのタイトルの1章がある)のもとでの多様な人間社会が…ってそれも嘘だし。まあ、そんなんで感想にもなってないんですが、すんません。