文藝春秋の新刊 1998・7 「七月」 ©大高郁子

ほお、七月というタイトルの7月の表紙だったのね。ライトブルーに転がり遊ぶビー玉が涼しげで快く脱力させてもらえそう。画力が軽やか。
南部の慰安、隣家全焼、そういう重要な月です。いや、この頃まだ福田和也を知りません。時々あさナマに出ていたデブの右翼くらいの認識。「作家の値打ち」でまでは文芸評論家であることさえ知らなかったでしょう。さてでも、甘美な生活とかこちらとか文庫になってるのかな。

万君たちに
 日本文学の未来を問うことはそのまま、日本という国家の、国家に先んじて在るくにの、くにに先んじて在る日本の民の、未来を問うことである。
 日本の文芸は、国にも、人にも、或いは言葉や土地にも先んじてある。
 この「先んじて」は、時計に拠って測られるような前後の関係に於いて記しづけられるものではない。ただ、何よりも、動き、発し、現れるすべてにおいて、あらかじめ生きられ、感じとられ、殺され、自ら縊れつつ花咲くものとして、日本の文芸はある。存在している。
 南部の慰安、最後のエッセイ「日本文藝の永遠─その未だ来らぬものと既に訪れたもの」の冒頭部分

いやあ、こんな美文のアジテーションについ騙されちゃってさ。