文春文庫 08年4月刊 南木佳士 こぶしの上のだるま

大きなループを持つ連作短編集。ループの両端には死が置かれているけれど、うつ病を克服したらしい著者にとっては、死も小さなアレゴリーという按配なのか。
うつの最中に「医学生」は書かれたとの種明かしもあり、その他いくつも著者を襲った精神的危機が医師の視点も交えて記してあり、もちろんそれは興味深いものだった。

この小説(「医学生」)は、うつがひどかったころ、北国に新設された医学部に学ぶ四人の若者たちの屈折した生活と意見を、みずからの体験に即して膨らませ、だれよりもまず著者自身が読みたい湿気の少ないユーモアをちりばめて仕立て上げた作品で─中略─売れるかどうかよりも、萎え衰えた精神が読んで楽しみがっていた。
 「山と海」より

北杜夫のユーモア物も危険で脆いうつの脳が書かせたのだね。とはいえ、著者南木佳士のうつは、折り合いが悪かった父の死であっけなく快癒したそうで(現在もリハビリ中みたいではあるが)、ま、そんなもんかなとそのあっけなさに呆れる部分がないわけでもないけどね。とはいえ、うつ病抑うつなどの神経症、多くの人格障害などはきっと病理の原因をこういう具合に除去すれば治癒するっていうそんな症例のようです。
鬱病の最中にも父との確執など小説にしてきている著者で、でも昇華っていうわけにはいかないんだね。原因物質の物理的な排除以外に、本当の治癒はないみたい。フロイト先生の言う「父殺し」というか思春期の脱皮をうまくおこなえない典型なんだろうが、そのおかげですてきな小説家が誕生するわけでなかなか、世の中難しい。
小説中には、元患者のこだわりみたいに洗顔や歯磨きのノウハウだとか、老人たちとの折り合いのつけ方や中高年登山者への忠告など、けっこう楽しいエピソードが満載だ。わたしとしては草軽電鉄のエピソードがちらと出てきて「本当にあれはあったんだな」みたいな感慨ですか。
「ぬるい湯を飲む猫」は、でもちょっとぐっときましたね。冷たい水を飲めなくなった老猫のために温水を用意してあげた著者にいくつもの過去がひたと押し寄せる。

しゃがんで、飲みっぷりのよさをよさを眺めていたら、なんだか、尾てい骨のあたりから湧き出して次第に上昇してくる、哀感に彩られたしみじみとした気分に上半身すべてが浸されてきて、一切の思考が停止した。それは、これまでの、自身のいたらなさを責める回路が起動するのを抑える防衛反応だったかもしれない。これほどの配慮を、寝たきりの父に示したことがあっただろうか。あるいは、もっと世話になった祖母に対してさえ、懐かしさをいまになって文にしたためているだけで、生きていた彼女に、こういう、目に見える気配りを実践しただろうか。
 「ぬるい湯を飲む猫」より

ま、これもうつ病その他の症例なのでしょ。とまれ、円環となった死者たちに誘われそこなった著者の遁走で終わる小説集、こんなパターンで続きそうでちょっと情けない。「ぬるい湯を…」は「トラや」という長編になっているそうで、文庫になったら読んでみましょう─じつは今月の文藝春秋単行本に「草すべり、その他の短篇」が出ていて、けっこう予後はよさそうですね。