ハヤカワ文庫07年3月刊 ダイ・シージエ バルザックと小さな中国のお針子

バルザックと小さな中国のお針子 (ハヤカワepi文庫)

バルザックと小さな中国のお針子 (ハヤカワepi文庫)

小説技法の粗雑さに驚く。世紀の事件、文革下放を扱うというのにあまりにメリハリやインターバル、序破急がないからあきれてこれはなんとも読みにくいぞ。こんなことではフランス人に「ららら科學の子」を速攻で翻訳して読ませてあげたくなったよ…と記したけど、発行年月日を見たらこちらの小説のほうが日本での発刊が早かった。
シチュエーションは似てるというか同じというか、下放先で美少女に本を読んで言葉を?え、言葉を教えたおかげで最後は美少女(科學の子では妻)に裏切られるというのか、でも、まあディティールはどうでもよくて(いいのかな?)主人公が屈折している強度深度もまれ度の問題なのですね。亡命する兄の荷物に妹が慌てて詰めた「猫のゆりかご」というメタファーの深さか。もちろん知識人の母の尽力で都会へ帰れる勝者メガネから無理やり奪ったバルザックというアイテムが悪いのではなく、切実さの度合いですね。
映画になったっていうのがなんとも不思議で、第一のクライマックスである羅と小裁縫の初体験シーンが小説ではほんの半ページ、なんだこりゃ性的シーン一切ないし、視覚にもドラマにもなりゃしない。レスリー・チャンの「さらば、わが愛<覇王別妃>」みたいで主人公が羅に恋をしていて云々というわけでもなさそうなののに羅の恋人小裁縫を守ろうと傷つき、彼女が羅の子供を堕胎する算段を(犯罪だから)必死でする(幾つめかのクライマックス)あたりも漫画的だしだいいちそんな騎士道精神の理由も小説から浮かばない。青春の一齣ですませていいのか。ま、きっと映画ではそのへんの感動シーンは端折らなかったと思うけどね。
モーツアルトが毛主席を偲んで》っていうギャグがのっけに出てくるが、偲ぶってのは正しい用法なのか疑問です。でもかの国が文革当時小学生だったわたしは、午後10時過ぎに勝手に電波に乗ってくる北京放送で「毛主席のなんとかかんとか」という革命歌をラジオでいっぱい聞いてましたので、ギャグ自体はよーくわかる。