幻冬舎文庫 08年4月刊 垣根涼介 クレイジーへヴン

※アマゾンにイメージはないみたい

娯楽小説としてのサムシングが不足しているのだが、それだけではない筆力で最後まで一気に読めた。
主人公である恭一が共感を拒むタイプなんだね、思いと行動とのギャップが大きい上にそんな矛盾をあまり意識していない。車上ドロにあった主人公が、完膚なきまでに復讐を果たす、それも待ち伏せで相手を特定するなんて成算のない方法でやるなんて行動力がのっけに出てくるから、読者は「ははあ、そういうバイオレンスな男の小説なのね」と思っているのに、なかなかそうは問屋がおろさない。鬱屈したサラリーマンというスタンスを特別憎からず思っているようなシーンが入ったりして面食らう。
ヤクザを殺し、圭子とともに死体を処置した恭一の愛車がRX-8であることに、うしろからその車とともに走っている圭子が感慨を持つ。

瀬戸内の片田舎にある自動車メーカーが、十数年ぶりに新設計したロータリーエンジを載せたクルマ…。カッコ悪くはない。むしろ全体としてみれば、流麗なボディラインとも言える。とはいえ、クーペのはずなのに四枚の観音開きになるドア。つまりはハーフセダンということだ。その割り切りのなさに、クーペにもセダンにもなり切れないコンセプトに、このクルマの細部のデザインの破綻を見る。
 PHASE3 情欲の冬 p.217

というわけで、恭一の性格を“一見マトモなリーマンのふりをしながら、あの市原を半殺しにしたときに見せたどす黒い狂気。死体を埋めるときにあたしに向けてきたむき出しの憎悪。そのくせに泣いた。…”と、圭子はきちんと理解している。でも、そんなものかな。
気になったのは「音」に関する鈍感さかな。中国人の住むアパートでパソコンを壊すのにゴルフクラブでドカンだ、2人組も容赦はしない。でもアパートでそんな音はご法度だろう。
市原殺しの際も、セックスする時も大きな音をけっこう立ててる。そんなふうに世間にに対しての気兼ねを消すことが“フレームを超える”という意味か。でも、それってそうとう無防備だよね。
PHASE4の冒頭で「悪事など、ばれるときはあっさりとばれるものだ」と記されていて、さあて最終章では絶望の逃避行が始まるんだなと勝手に推察したらそうとうあてが外れた。そんな大衆小説の快感をざっくり捨て去る著者の意気込みには驚いた。そんなわけで娯楽小説のフレームは充分超えてるし、一気に読ませる圧力もあるし、わたし好みの後期青春小説ではありました。