トマス・H・クック 石のささやき

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読書中ちょっと勘違いしたのは、逮捕された主人公が捜査官の前で語っている現在とは、少年ジェイソンが溺死してからだいぶ時間が経ち第2・第3の事件が起った後に、その当事者として拘束された主人公が驚愕の真相を語るという、よくあるミステリーかとおもってしまったこと。本書はそんな類型的なミステリーではなく、カバー裏の梗概にしるされた“衝撃の真相”は、それはそれは怖いものでした。
凶暴さで姉と弟を支配していた父の統合失調症が、その遺伝子を持つ孫(姉の息子)のジェイソンに現れた。幼少の彼が溺死した事件を発端として、同じ危険な因子を持つ姉も発症し元の夫を追いつめようとしている。彼女の弟であり多分自分やその娘もも因子を持つ(はずの)主人公が、自分や家庭を守ろうと不穏な姉を見張り諌める悲痛な姿が、長く重い供述で再現されて行く過程がストーリーの骨子。
取調室で刑事と対峙する主人公の心の揺れを二人称で語り、事件の顛末は一人称で語られる。巧みなバランス感覚で視点の交換がなされ、きつい物語をそれほど疲労せず読者は読み進むことはできる。小市民的な主人公の一人称で描かれる不気味で不穏な姉の行動(とりわけ主人公の娘への心的なオルグ)は恐怖であり、わたしのような通俗小説の愛読者は、わりと簡単に“類型的”な悲劇を思い浮かべる。ああ、つまりそのどんでん返しがこの小説の最良の“衝撃の真相”なわけなんですね。
ま、ミステリの感想文であるので、この最高の喜びに満ちた「裏切り」の内容を語れぬのは残念ですが、読み終えて思うのは「騙された幸福」という思いだ。
「石の来歴」という名のとても美しい中編小説を私は知っている。フィリッピン戦、そして連合赤軍事件というふたつの狂気を通底するトンネルの出口入口で、失意の父と息子が邂逅しかけ、だが互いを受け止められずに終える悲劇が淡々と語られる奥泉光の新境地となったあの美しい小説と、クックの語る家族の再生の物語とは、とても近い場所にあるように思った。

「父さん?」
建物のレンガ製の柱の陰から、バティが現われた。心配そうな、神経を尖らせている顔で、何を言い何をすればいいのかわからないようだった。彼女の目のなかには暗い才気の輝きがある。長い間押さえつけられていた知性。おまえの不安によって押しつけられた凡庸さの層の下に埋もれていたすべて。解き放たれた彼女の頭がこの先どこへ向かうのか、おまえにはわからない。ただ、わかっているのは、彼女がどこへ向かおうと、どんな苦悩を通過しなくてはならないとしても、おまえは彼女についていくだろうということ、いつもそばにいてやるつもりだということだった。
おまえは娘を保護するように腕のなかに抱き寄せて、分かっているただひとつの真実を宣言する。「いつまでもおまえを大切にするつもりだよ」
ちょっと抱かれたままになってから、彼女はおまえの腕のなかから体を引き離した。「さあ、もう家に帰れるんでしょう?」と、彼女は訊いた。
声が言った。<帰れると言ってやるがいい>
それで、おまえは言われたとおりにした。
   (了)

バティというのは主人公の娘、“おまえ”とは二人称で語られている主人公。とても感動的なエピローグですこし涙した。“声が言った”という“声”を語るのはとても難しい。内面からの声はたいがい破滅への囁きとして存在するものだから。とはいえ、主人公はその声に幼少時からずっと守られたということで、最後の声に読者である私はとても安堵し納得をした。
いくつかの疑問点を。
その1 “殺人者”と元夫の車にペンキで書いたのは主人公だと書かれているのだが、物語的にどうにも理解しがたいな。

(ネタバレ)

─そのせいで姉は逮捕され結局は自殺するのだから─

(ネタバレ終)

アクロイド殺しじゃないけれど、やっぱりそこはしっかり記述しないと、いろんな罵声が出てくるんじゃないのか。主人公の改悛が、これでは偽善でしかないようにしか見えない。
その2 溺死したジェイソンという少年の病名に統合失調症というのは、アメリカでは一般的なのかな。精神疾患関連の用語はまあいずれにしても面倒ではあるのだけれどね。もちろんDSM-Ⅳなど手許にない私ですが、発達障害認知障害自閉症その他の言葉でいっている小児の精神疾患って、まあ統合失調症の範疇でいいということか、よく分からない。
その3 カバー画はちょっといただけないなあ─装画・中島恵可、デザイン・石崎健太郎─というか、新刊なので帯を巻いたまま購入し自宅であらためてカバーを見たならそうとう感化される。わたしの場合愚かにも、ほぼ読了まで気付かずにいたのでストーリーを楽しめた。